美貌の歌人 原阿佐緒の生家を訪ねて

宇都宮市・天谷静雄



仙台萩まつりの開かれている野草園に来た学生の私は萩まつり句会に投句の俳句を案じていた。敬老の日らしく萩の花の間には年寄りのそぞろ歩きが見え隠れする。 それを見て私は若くして逝った母親をあのような老婆にして歩かせてみたいと思っていた。

ところで野草園のある丘陵からは北方にぽこぽことお椀を伏せたような七つの山、すなわち七つ森が見える。「仙台の文学散歩」という本で予め知っていたが、七つ森 の麓にはかつて道ならぬ恋で浮名を流した美貌の歌人の原阿佐緒の生家があるはずだ。美人薄命と言うが阿佐緒自身は長命を保ってこの世を去った。この丘には阿佐緒の歌 碑もあり「家ごとにすもも花さくみちのくの春べをこもり病みて久しも」と刻まれている。萩山から遠くながめた七つの森と美人の幻想。阿佐緒とはいったいどんな女であ ったのか?

あれから36年たって私はついに阿佐緒の生家にたどりついた。ここは仙台から北へ十数キロ離れた大和町宮床という所だ。農村風景には珍しい白壁の家は明治期に建てら れた擬洋風建築で、今は原阿佐緒記念館となっている。庭には阿佐緒のもう一つの歌碑があり、「沢蟹をここだたもとにいれもちて耳によせきく生きのさやぎを」とある。 ひっそり閑とした記念館のドアを思い切って開けると洋風の髪型の阿佐緒の写真が出迎えてくれた。うりざね型の顔の京風美人だが、妻を同伴してきた手前、「何だ、それほ どの美人じゃないじゃないか」と声高に言う。美人の品定めからまず入るところがオヤジ趣味的で文学散歩からはほど遠い自分の境地をいみじくも物語っていると思う。

しかし年譜で見る限り、阿佐緒は現代版小野小町とも言うべきスキャンダラスな女流歌人であることも事実だ。阿佐緒は明治21年、宮床村の素封家の一人娘として生まれ、 まるでお姫様のような少女時代を過ごした。運命の狂いは13歳にして父親と死別、さらに病気で県立高等女学校を中退したことだ。やがて絵を習いに上京した先で妻子ある英 語教師と関係して妊娠、郷里で自殺を図ったが果たせず、長男を出産。仙台の女学校で美術の教鞭をとる一方、与謝野晶子に認められるような短歌を次々と発表し、九条武子・ 柳原白蓮と並ぶ日本三閣秀歌人ともてはやされた。

31歳の時、二度目の結婚にも失敗し、傷心と失意の阿佐緒の前に登場したのが世界的理論物理学者で同じアララギ派の歌人でもある東北帝国大学教授石原純だ。石原は妻子 を捨て大学教授の地位も投げ打って阿佐緒との同棲生活に入るが、7年余りで阿佐緒が身を引くことによって破局を遂げる。自らの夢を求めた阿佐緒は、酒場に、銀幕に、舞台 にとさすらうが、昭和10年、彼女が47歳の時、老母の待つふるさとの白壁の家へ、ひっそりと身を寄せた。昭和29年、神奈川の次男宅に引き取られるまではそこに住んだが、 昭和44年、81歳で息を引き取るまで歌壇からは遠ざかり世の人々から忘れ去られていた。ちなみに石原純は進駐軍の車に轢かれたのがもとで戦後まもなく67歳で没している。

石原をそんなにも夢中にさせたものは一体何なのか。可憐さいっぱいの阿佐緒の顔からは大正デモクラシーを背景に恋愛の自由を謳った女闘士の姿も見えず。ただ自らの才 能と美貌に翻弄され続けた受け身的な生き方の女性像しか見えない。惜しむらくは彼女のまわりにもっと理性的で誠実な男性ばかりそろっていたら、と思われることだ。ちな みに同じアララギ派歌人として斎藤茂吉が二人を別れさせようと無駄骨折った経過はあり、その茂吉自身も後年、若い女弟子との恋愛事件を起こしている。記念館二階には二 人の愛の形見とも言うべく、東北大学理学部より寄贈の石原教授使用の机が展示され、皮肉にもその書棚には斎藤茂吉全集が並べられていた。

帰りがけに受付で阿佐緒の伝記本と、それから石原との同棲を決意するに当たって上梓された歌集「死を見つめて」を入手した。歌集にはふるさと宮床の自然と暮らしぶり 、そして母親として我が子に寄せるまめやかな情愛がふんだんに歌われていて心打たれる。彼女はこの歌集発表を機に過去の清算と再生を意図していたと思われるが、時代は一路、戦争の暗闇へと突入していく。ああ、石原と阿佐緒の恋は時代の谷間に咲いた徒花と言うべきか。  最後に受付の記帳を見たら我々も含めて今日の来館者は五人のみだった。記帳が終わった妻の感想は一言「美人も大変ね」だった。

生きながら針に貫かれし蝶のごと

悶えつつなほ飛ばむとぞする

阿佐緒

栃木保険医新聞2007年9月号・投稿