大石田の最上川を訪ねて

きり絵と文 天谷静雄(宇都宮市)



今回の山形入りは宮城県鳴子町(今は合併して大崎市)からわざわざ迂回して「奥の細道」ゆかりの山刀伐峠を越えた。もちろん芭蕉が難儀して越えた山刀伐峠とは異なる 現代の峠道だが、それから先の尾花沢までが長かった。沿道の民家の土台の高さやスノーシェードの存在にもこの地方の雪の深さが思いやられた。

たどり着いた尾花沢市は西瓜の名産地というばかりで市外は何の変哲も無い。それでも昔は栄えていたのだろう、「芭蕉十泊の地」という看板あり、芭蕉にはそれなりのパトロン があったはずだ。それはやはり紅花栽培と最上川の水運に負うところが大きいのだろう。

さらに車を走らせながら最上川湖畔の大石田町に来た。まず最上三十三観音第二九番札所の西光寺にたち寄って境内の奥に芭蕉の句碑を見つけた。ここには「さみだれをあつめて すずしもがみがわ」とあり。「奥の細道」本の掲載句とは違うが、芭蕉は句の調子を考えながら後から「すずし」を「はやし」と詠み代えたのだ。山門には江戸時代作の大きなはりぼて のような稚拙な姿の仁王像あり。本堂の屋根は雪が滑り落ちやすい形となっていた。

それから案内板も不備な町なかをぐるぐる回った末、やっと大石田町立歴史民族資料館に来た。ここには地元の素封家の二藤部兵右衛門家の厚意で斎藤茂吉が戦後直後に疎開生活を 送ったという離れが現存しており、名付けて聴禽書室と言う。二階建てのなかなか立派な離れであり、戦後直後ながら食べ物には不自由しなかったことは息子の北杜夫の手記からも読み とれる。窓際には当時使った座り机が置かれ、床の間の掛け軸には茂吉の絶唱の「最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも」の文字があった。館長らしきおじさんの 山形弁はよく聞き取れないが、昔はこの辺一帯は蛙が鳴く田んぼで、夜ふくろうが来てホウホウと鳴いた桂の大樹はついに枯れて伐られてしまったとのこと。

同じ頃、神戸出身の洋画家・金山平三もこの地にほれこんで夫婦いっしょに移り住み、「大石田の最上川」の名作を描き残している。その金山画伯の話も出たが、ここには金山の 作品も何点か収蔵され、時々企画展を催すらしい。展示コーナーには昔の最上川と大石田を描いた絵図もあったが、それを見て昔も今も変わらない何とちっぽけな町だろうかと思った。 「大石田は尾花沢市と合併しないのですか」と問うたら、山形弁の館長は「合併してもろくなことはねえ。町はさびれるばかりだ。」言い放った

最上川はここでは川幅いっぱいに滔々と流れており、昭和6年に架けられたという年代物の鉄橋を渡って、河岸(船着場)の面影を残した対岸の町並みを眺めた。予め読んだ茂吉の 歌集「白き山」には大石田と最上川の情景がふんだんに歌われている。代表作は「最上川の上空にして残れるはいまだ美しき虹の断片」「蛍火をひとつ見いでて目守りしがいざ帰りな む老の臥処に」など。そこにいると、極楽と称する尿溜め用のバケツを提げて堤を歩り回り、あるいは座布団代わりのさんだわらを河原に敷いて歌作に耽ったという茂吉の老いぼれた 姿も目に浮かぶようだ。

やがて茂吉の大石田滞在は天皇巡行に目見えることと肋膜炎悪化により2年で打ち切られ、東京に帰っている。「白き山」には自らノンポリぶりを恥じた作品もあり、郷里金瓶につ づく大石田滞在はやはり茂吉なりに戦争責任を感じてのものであったらしい。「逆白波」の歌にはそういう人生と歴史をはるかに思う感慨、悲哀と悔恨の念が深く刻み込まれていると 感じる。

ところで洋画家の金山平三は雪の風景画を得意とし、「大石田の最上川」も光る雪に包まれた最上川として描いている。私は大橋の中途から平三と同じ視点で最上川をながめ、さら には茂吉の「逆白波」の歌をお経のように何度もつぶやいてみた。大河に貫かれた雪国の田舎町にはたしかに人を哲学させるのに十分なものあり。今度は雪の大石田と最上川を見に 来たいと思った。

栃木保険医新聞2008年新年号・投稿