東北道の二本松インターから下りたのはこれで二度目。一度目は親子三人で安達太良登山を試みた時のことだ。頂上乳首山の上では「ほんとの空」が仰げるものかと期待していったのだが、 そこには零下に近い強風が吹いていて15分もいられずに退散。下山時には中高年登山の常で膝がかくかくして難儀した。これからついでに智恵子記念館見学でも、と言ったのだが、息子 が早く帰ろうと騒ぐので、あきらめて帰ってきてしまったことだ。 あれから10年後、遂に我々夫婦は智恵子のふるさと旧安達町(今は合併して二本松市)にたどり着いた。まずは高村光太郎・智恵子夫妻が歩いたという「愛の小道」を散策。生家の 裏山にある稲荷八幡社が登り口になっており、尾根伝い、新緑の林に囲まれた小道を歩くと風がひんやりとして気持ち良く、鶯や蛙の声ものどかに聴こえる。途中の彫刻の丘には数体の 女人像あり。やがて鞍石山墓地のてっぺんにある「樹下の二人」の詩碑のある所に来る。 ここからは雪を頂いた安達太良山がよく見える。しかし、振り返って見ても阿武隈川の川筋は見えず、「あれが安達太良山、あの光るのが阿武隈川」と言うわけにはいかない。しかし 安達太良の山容は堂々としており、妻はふるさとの月山を連想してか「安達太良は二本松市民にとって母なる山なのねえ。」と妙に感じ入っている。我々もここで永遠の愛を誓うべく記念 写真を撮ったが、紫外線よけのつば広帽子と花粉症マスク姿の妻は何だか怪しいオバサンに見えた。今日はあいにく曇りがちで辛うじて雲の切れ間に青空が少々のぞけたが、あれこそ 「ほんとの空」かと思ってみた。 それから造り酒屋の面影を残した智恵子生家前に来るが、「智恵子抄」の歌が懐かしく流れるのにつられて数軒先の土産屋に入る。妻はここで「樹下の二人」の詩を染めぬいたのれんを 買う。店のご主人の話によれば、今は母屋だけだが昔は広大な敷地に白壁の蔵や煉瓦の煙突が立ち並んでいた。長沼家の没落後、これらは人手に渡って醤油屋となり、やがてそれぞれの建物 が傾いて次々ととり壊された。平成に入ってから竹下内閣のふるさと創生資金を元に町が十億円かけてここを整備したとのこと。それまでここは長沼家の繁栄と没落、狂人を出した運命の 跡地として地元からは忌み嫌われていたと言うわけだ。 それから一人400円払って智恵子記念館に入り、生家を内部から見学するが、そこは酒造りの旧家の面影を残したなかなか立派な建物だ。智恵子の好きだったという「田園」の曲も流れて いる。記念館入口では束髪で丸顔、着物姿の若き智恵子の肖像写真が出迎えてくれた。年譜を見ると昭和4年に長沼家破産、昭和6年に精神分裂症発症、昭和13年に死去とあり。「智恵子抄」は 昭和16年に発刊されているが、おそらくこの詩集が世に出なかったら智恵子の一生はそれほど顧みられることも無かったろう。智恵子は文展で落選して以来、画家として大成の夢を諦めたと 言うが、作品はデッサンと油絵数点を残すのみ。あとはゼームス坂病院に入院以来の手すさびに作った紙絵の展示ばかりだったが、切り絵と貼り絵の妙を兼ね備えた秀作ぞろいに感心させられた。 ところで彫刻家・光太郎は昭和28年、十和田湖畔に「みちのく裸婦群像」を完成建立し、数年後にこの世を去っている。その中型ブロンズ像も展示されていたが、亡き智恵子の面影を宿したと いうその顔をしげしげとながめても見た。智恵子の生涯を紹介するビデオは例の「レモン哀歌」の詩の朗読で終わっている。狂人の妻をもった苦労は多かったろうに、光太郎は、五十代の死にゆく 妻に向かってあくまで若い恋人に接するようにやさしく語りかけていて、その詩自体が永遠に若い。私はファシズム日本に傾斜の時代にこういう純粋素朴な夫婦愛が存在し得たということに稀有の 印象をもち、その永遠の若さに学びたいと思った。 |
栃木保険医新聞2008年5月号・投稿 |