みちのく花巻に光太郎山居七年の跡を訪う

きり絵と文 天谷静雄(宇都宮市)



高村光太郎という人は生粋の江戸っ子、都会っ子でありながら、その心はいつも北へ冬へと傾いていたようだ。 そう思ったのは二重の套屋に包まれた山荘、つまり光太郎が戦後7年間、自炊生活をした鉱山小屋が、寒冷地にしては あまりに粗末にみすぼらしく見えたからだった。ここでは冬には三尺もの積雪があり、吹き込んだ雪が寝ている頭の上 にも積もった、と案内のおばさんが説明してくれた。

小屋の中には小さな囲炉裏が切ってあり、傾いた書棚には何冊もの蔵書が並んでいる。今にも戸ががらりと開いて、 この家の主人がひょっこり帰ってきそうな気配だ。面白いことに光太郎が来客用にこしらえたトイレ、名付けて「月光 殿」の戸板には明りとりのために「光」の文字が切り抜かれてあり、そこからも光太郎の目が笑ってのぞいているかに 見えたものだ。

そこから少し西方へ歩く途中に例の「雪白く積めり」の詩碑あり。賢治を生んだ宮沢家の招きに応じて花巻郊外に 疎開し、敗戦の年にここで初めての冬を迎えた頃の感慨が綴られている。

記念館入り口では十和田湖畔に立つ「裸婦像」の中型ブロンズ像が出迎えてくれ、その向こうには国民服にチャン チャンコ姿の好々爺とした光太郎の肖像写真が微笑んでいた。その上の壁には村役場のために書いたという「大地麗」 (大地麗わし)の扁額。ふり返ると入り口側の壁には山口小学校児童のために書いたという「正直、親切」の文字があ った。書の方もなかなか立派で、筆法にも几帳面で律儀な性格が表れているなぁと思う。

光太郎の生活用品展示では、足の長さ十三文半という特大の長靴に目をみはった。身長192センチという大男の光太 郎はこれをはいてのっしのっし歩き回っていたのかと思う。じっくり展示を見て回る余裕がなかったので、光太郎と接 した地元民の証言を集めた「山居七年」という本を買い求めた。受付のおばさんは「ありがとございます」と丁寧に言い、 毎年5月15日にはこの地で高村祭が開かれていると紹介してくれた。受付の壁を見上げたら「高村光太郎 六つの面」と題 して「思想家、彫刻家、文芸評論家、詩人、洋画家、書道家」と書かれてあり、なるほど多芸多才の人であったのだなと 思う。

そこから裏山にある智恵子展望台へのコースを一巡してきたが、今日は曇っていて東方の早池峰山方面への眺望はき かず。伝説か否か、光太郎がここから「智恵子オウ、智恵子オウ」と大声で泣き妻の名を呼んだという話もゆかしく思わ れた。帰りがけに山荘前の看板を改めて見たら「聖なる巨人の遺跡ですからお互い清らかな心をもって」との前書きで火 の用心や環境保全を訴えている。そんなところにも地元民の光太郎に寄せる深い愛情と尊敬の念が感じられた。

そもそも光太郎は父光雲の跡を継いで美校教授の地位を約束されていたが、洋行して西欧文化の洗礼を受けてからは 近代的自我の確立を目指し、既成秩序への反逆とデカダンの生活に明け暮れていた。そこに忽然、女神か観音のように現 れたのが智恵子であり、智恵子との生活で光太郎の精神は浄化されたが、代わりに芸術と生活の困難さと葛藤から智恵子 の発狂を促す要因ともなった。

昭和16年発行の「智恵子抄」の詩集は純粋な夫婦愛の結晶として世の人々の賞賛を集めたが、その後がいけなかった。 太平洋戦争開始の号砲を聞いたとたん、神がかりになり「先祖帰り」した光太郎はさかんに戦争鼓吹の詩を書きまくった。 それは終戦の日も同様で、神社境内で玉音放送を聞いた光太郎は「一億の号泣」という新聞掲載詩で、時代についていけ ない明治人気質を露わにした。

しかし、光太郎の偉いところは、じきに文学者としての戦争責任に目覚め、自ら罰する形で花巻郊外での「自己流謫」 の生活を始めたことだ。その時すでに62歳。さらに「暗愚小伝」という連作詩を発表して、戦争賛美の誤りに陥った自分 を大衆の前にさらけ出した。

智恵子の命を奪った結核は彼の肺をも蝕んでいる。花巻で一生を終えるはずであった光太郎を何とか救い出そうと文学 者仲間たちが奔走して持ってきた話は、青森県による十和田湖観光開発の三恩人の顕彰記念碑を建てる話であった。これ を受ける形で、昭和27年、光太郎が上京して作り上げた裸婦像は、翌年10月、湖畔休屋に除幕される。人々は裸婦像の顔に 今は亡き妻の智恵子の面影を見たと言う。左手を開いて上げた形は施無畏印を示す観音像か。その裸婦像を二体向かい合わ せて立たせた姿が今や十和田湖のシンボルとなるのである。ああ、見事な夫婦愛の完成!そして光太郎の魂はいつまでもこ こ花巻の地に眠るのである。

さて、車で帰ろうとして駐車場わきに老夫婦の営む小さな喫茶店を見つけ、一杯350円の「光太郎そば」というのを注文 して食べた。安いだけにあまり期待していなかったが、案の定、どんぶりの中には汁の入っていない麺ばかりの所に生卵一 ヶ分とわずかな納豆が添えられているばかり。店のご主人が「よくかきまぜてください」と言うので、ぐるぐるかきまぜて 食べたら、意外とうまかった。しかし、後で口の中にいつまでも納豆臭さが残って困った。光太郎もこんな食べ方をしてい たのかなぁと苦笑。

記念館は雪の深くなる12月後半から3月は閉館だと聞いたが、できればその期間に再度ここを訪れてみたいと思った。雪 をラッセルしながら、自分自身が大男の光太郎になったつもりで、あの「道程」の詩の一節のように「僕の前に道は無い/ 僕の後ろに道は出来る」と口ずさみながら。

栃木保険医新聞2009年新年号・投稿