春を待つ生命のふるさと旧沢内村を行く

きり絵と文 天谷静雄(宇都宮市)



小岩井農場「まきば園」に寄って美味しいジンギスカン料理を食べたら、白く大きな岩手山が迫るようにあり。妻もその堂々たる山容に感服した様子なので 「岩手の父なる山だ。」「鷲が羽根広げた形で岩鷲山とも言う。」と教えてやる。雪の消え残る園内を歩く客はまばらだが、案内パンフによると5月連休中は 園内の桜を目当てに花見客が殺到するらしい。

そこから別荘街を真っ直ぐ西へ抜ける道をたどり、あらかじめネットで調べておいた西根栗木平という地区に来た。そこは雫石スキー場入り口にあるちょっ としたペンション街なのだが、目当ての建物はなかなか見つからず。いったんあきらめて、もしやと思ってまた戻ったら、やっと路傍に「緑陰」というささやか な看板かかげたペンションを見つけた。ここは元沢内病院長だった増田進先生が2007年国保田老病院長を辞められてから、近くの雫石町立診療所を手伝うかたわ ら、開業して週3回の診療をやっておられるところだ。今日は休診だが、幸いオーナーの男性がいて内部を案内してくれた。

中はサロン風で近所のばあちゃんたちを集めてデイサービス風にやっているらしい。自由診療で針治療が主だと言う。先生は現在75歳と言うから、あの当時は 38歳だったらしい。私は「学生時代、3回も沢内村を訪れて先生のご指導を受けたものです。先生によろしくお伝え下さい。」と告げて名刺を置いてそこを出てきた。 先生は現在旧沢内村の北部貝沢地区にお住まいなので寄って行けとも言われたが遠慮した。尊敬する先生の働き場所に立っただけで感激であった。そこから北には堂 々たる岩手山が見え、増田先生は毎朝この岩手山を眺めながら車を走らせているのかと思って、カメラのシャッターを切った。

山伏峠のトンネルを抜け沢内村に入ったら、そこは一面銀世界でびっくりした。私はいつしか深沢村長の遺体を乗せた車が山伏峠を越えて村の一本道を走る情景を 連想していた。いま製作中の映画「いのちの山河―日本の青空U」では、一本道の両側に村民が並んで出迎えたシーンを再現しようと、2月の吹雪の中、多くのエキス トラ参加でロケが行われた。そう言う話も思い出された。

貝沢地区では雪の和賀岳を背景とする地ビール工場によって「銀河高原ビール」を購入した。宮沢賢治にちなむ命名で、ドイツ本場に習ったなかなか味わい深いビ ールだそうだ。工場の周りにはまだ2メートル超の積雪があり、売店の女性に聞いたら「今年は雪が少ない」ということだ。

沢内病院は昔の木造モルタル2階建てからコンクリート3階建てになっていた。駐車場脇に移設された深沢村長の胸像と「いのちの碑」は雪に埋もれないようにそこ だけ板囲いがされていた。駐車場北側には小さい建物ながら2008年秋に開館の深沢記念館があり、1人300円払って入館した。そこには眼光鋭い深沢村長や若き日の増田 先生の写真、それから保健婦さんたちの懐かしい顔ぶれの写真もあった。深沢村長の執務した旧式の机もあり、そこに座って感想文ノートに一言記入してきた。館内の 大型テレビは昨年放送のNHK「その時、歴史が動いた」のビデオを流していた。

受付で25年ぶりに再刊の及川和男の「村長ありき」の本を1,600円で入手できた。それによると深沢村長は2期8年の村長在任中、豪雪・多病・貧困の三悪追放めざし、 病院の医師体制を整え保険活動強化、乳児と60歳以上の医療無料化断行で、1962年には乳児死亡率ゼロの金字塔を打ち立てた。革新自治体から全国へと広がる老人・子ど も医療費無料化の草分け的存在となって、岩手県よりも有名な沢内村となった。ところが食道癌に肺炎を併発して惜しくも1965年1月に急逝。他人に命の大切さを説きな がらとんだ紺屋の白袴となったわけだ。

本の中では単に腰かけ的な気持ちで赴任した若き日の増田医師に向かって「医者の給料は高いですねぇ」「でも必要だから貧乏村であっても出すんです。しかし出す以 上は、医者がサラリーマン根性を出してたら承知しません。」との毒舌をぶつけたとのエピソードも紹介されていた。増田先生はこの言葉を胸に刻んで「村の赤ひげ」とし てその後35年も沢内村で奮闘されるわけだ。全国で10年間続いた老人医療無料制度が有料化される際も国会質疑の参考人として意見を述べておられる。

沢内村でかかげられた老人医療無料化の灯は村民の総意で綿々と守り続けられる。平成17年11月湯田町との合併で西和賀町となった際は、厳しい財政状況から対象年齢を 65五歳に引き上げ、月外来1,500円、入院5,000円までの一部負担で、超過分は町が負担するという制度に変わった。無料ではなくなったが、老人たちはあまり負担を感じてい ないという。高橋町長は沢内出身で生命行政の灯を絶やさないとは言うが、沢内病院の医師確保の困難はあり、これからいったいどうなることやら。この2月にも沢内病院を 有床診療所化する県の指導案に反対の町民大会が開かれたそうだ。

旧沢内村を貫く一本の長い道はたしかに新たな時代を産む産道に違いない。しかし、ここを歩く人が少なくなればそれはそのまま地域医療崩壊につながりかねない。旧湯田 町につながるトンネルを抜けたら一転、沢内の冬景色とは異なる春めいた景色となった。そこで私は、日本のチベットと言われる岩手県の中でもよりチベット的なこの旧沢内村 の未来に幸多かれと祈らずにはいられなかった。

栃木保険医新聞2009年7月号・投稿