柳青めるふるさとに青年啄木の面影を追う

きり絵と文 天谷静雄(宇都宮市)



東北道を北へひた走ればやがて正面に大きな白き岩手山の姿。滝沢インターで下りて国道4号を走ると、円錐型の姫神山が愛らしく見える。 啄木の言う「ふるさとの山」とはさてこのうちのいずれか。目指す渋民の里は、この姫神山の山裾にへばりつくようにあった。

記念館入り口には、啄木に似せたマネキン人形が右腕を動かして愛嬌を振りまいている。等身大に作られているのだろうが、 小男の啄木は常に身長コンプレックスを抱いていた。そして写真撮影時には、少しでも自分を偉大に見せようと胸をはり、肩をそびらかせていた。

そんなエピソードが思い出されるのは、実は我が父親も同様の身長と性癖を有していたからだ。徴兵検査で丙種とされた啄木は兵役を免れ、 我が父親も第二乙種のため、衛生兵として内地勤務で終戦を迎えた。チビなことは何も悪いことばかりではない。啄木の端正な顔立ちも若き日の父親に 似ているようで、思わずニヤリとさせられた。

パネル展示や生原稿、書簡などはじっくり見る気がせず。ただ啄木が愛用したという座り机やランプ、それから一メートル幅の旧式のオルガン、 さらに職員室の机と椅子などからは、そこはかとなく明治の香りが漂ってきた。何人もの芸術家が製作の啄木の肖像画や肖像彫刻の展示もあり。 それぞれに違った印象を受けるが、小ずるくて生意気な顔はどこにも無い。

啄木は借金の神様と言われ、周囲に迷惑のかけ通し、自業自得の人生を送った放蕩児のはずだが、不思議と憎めない。誰からも愛惜されるのは、 この人の美徳ゆえかと思う。

目に止まったものとしてフロアには、啄木が夢に描いた「わが家」を造形した展示物あり。詩集「呼子と口笛」の所載の詩だが、 晩年、東京で過ごしていた啄木は故郷へ帰り、家を建てたいと願っていた。その夢も空しく、この詩を書いた十カ月後に亡くなったとあり。 出奔して一度も帰ることの無かった故郷を思う心がにじみ出ていて哀れであった。展示の最後は「新しき明日の来るを信ずといふ自分の言葉に嘘はなけれど」 の歌でしめくくってあった。

それから園庭に出て、啄木が代用教員として教鞭をとった旧渋民尋常小学校と啄木一家が間借りした旧斉藤家のそれぞれの建物を見学する。 小学校の方は意外と天井が低い。玄関を入ったすぐ左側が教員室で、四人分の机が並んでいた。ギシギシ言う階段を踏んで二階に上がったら、 手前が啄木が担当した二学年の教室らしく、小さな机と椅子が並んでいる。狭い教壇に立って見下ろしたら、たちまち熱血青年教師啄木の気分になった。

さらに隣に移築された旧斉藤家の方も見てみるが、二階の一ト間に上がる階段は危険で上がれず。見上げれば天井が貼ってなく屋根裏がそのまま見えた。 ここで小説「雲は天才である」や「面影」が書かれたと言う。一階奥には馬屋もある典型的な農家の造りだった。

記念館後ろには、啄木が少年時代を過ごした宝徳寺があり。境内入り口には「いただきに来て啼きし閑古鳥」と歌に詠んだ大きなひばの木もある。 新しく建て替えられた本堂のどこかには、啄木の部屋が保存されているはずだ。寺の門の外には堂々たる岩手山が見えて、これを毎日眺め暮らした少年が 気宇宏大になるのは無理も無いなぁと思われた。

最後に北上河畔の渋民公園に立つ歌碑を見に行く。高さ四メートルの巨碑の表には活字体で「やはらかに柳あをめる/北上の岸辺目に見ゆ/泣けとごとくに」 の歌。裏には「大正十一年四月十三日無名青年の徒之を建つ」それから追刻で「大東亜戦下昭和十八年五月此処鶴家に移す」との刻字あり。 郷愁の詩人啄木に寄せる人々の思いが読みとれた。そこから見下ろせば、ゆるやかに蛇行して流れる北上川、対岸にはおりよく青める柳も見られて、 離村する啄木そのままの気分に浸れた。

父一禎の宝徳寺再住工作の失敗と生徒を扇動してのストライキ決行の末に「石もて追はるるごとく」そこを立ち去る啄木。 貧困と病気と家族の重い期待にうちひしがれて小説家としては成功せず。皮肉にも「悲しき玩具」と称した短歌が死後評価され、 国民歌人と呼ばれるに至る。しかして、その本質は詩人であった。

啄木の二十六歳という短い生涯は晩年、大逆事件を機に「時代閉塞の現状」について考察し、社会主義思想に目覚めたことで永遠の光を放つ。 たとえば「はてしなき議論の後」の詩では「ヴ・ナロード」(人民の中へ)の叫び声を何度もあげて、晩年の彼のたどり着いた境地を言い表している。

ああ異郷に眠る詩人の魂よ。願わくば風となってこの故郷の空を飛びつづけよ。そう思って再び歌碑のほとりに佇めば、 この巨碑が風をはらんで出航する帆掛け船の帆のように見えた。

栃木保険医新聞2010年新年号・投稿