喜多川歌麿と言えば、ご存知有名な浮世絵師である。 昭和16年に、歌麿の栃木滞在説が日本で最初に、浮世絵研究科の吉田暎二氏によって発表された。 吉田氏によると、歌麿は京都に生まれ、近江商人で近江の守山から栃木市へ移住した“釜屋”を頼りに 母とともに幼くして栃木にやってきた。 そして栃木の釜屋(善野家)の紹介で、江戸の狩野派の画家、鳥山石燕に師事し、浮世絵師として 第一歩を踏み出した。その後、有名になってからも、しばしば栃木の釜谷を訪ね、大作「雪月花」を執筆したらしい。 また、江戸文学研究家の林美一氏の「歌麿が愛した栃木市」という美術雑誌によると、栃木市には歌麿の肉筆の作品が多い。 さらに明治12年に栃木市の正願寺において、釜屋(善野家)の秘蔵の「雪月花」が展示された。このことが美術業者達の噂となり、 次第に栃木滞在説が広まり、ほぼ確かなものとなっていった。 その証拠に、歌麿は私的なことを画中に書き入れる癖があり、知人の名前を枕絵の書入れに登場させたり、これに地名を入れたり していた。 洲崎に住んでいた時は、木場の材木屋の主人などが書入れに登場し、馬喰町に引っ越せば、坂元山口屋の主人が描かれた。 ところがその中に、異質な地名がたびたび現れた。それが“栃木”であった。 作品の「合本妃多智男比」では、“栃木のとくなり”や“栃木の杉江の息子”とある。“とくなり”とは、釜屋の分家である 釜喜の四代目、善野喜兵衛のことで、彼は狂歌師であり、風流名が通用亭徳成である。“杉江の息子”とは、栃木の豪商で、 回槽問屋の杉江家の息子のことである。 他に「艶本多歌羅久良」では、“栃木のふる川をみるよふなもので”とあり、これは巴波川の古川精米所の水車の ことである。 この他にも、栃木が多数書かれていると、林氏は述べている。 |
以上のことからも、歌麿は少なくとも寛政3年頃から寛政12年の約10年間にわたり、時々江戸を離れて栃木で過ごしたことが 考えられる。 特に、寛政4年から8年頃までは、歌麿の絶頂期であり、代表的作品の過半がこの時期のものである。 近年では「NHKスペシャル」で“歌麿と栃木”が番組となり、放送された。このときに、ネットワークとちぎの佐山正樹氏が 取材を受けている。 歌麿研究会のメンバーでもある佐山氏は、「歌麿の絵には“教養”を感じることができる。特に、人物や動物などの 小さな部分の観察力や、表現のバランス感覚がすばらしい」と語る。そして「当時は、江戸の中心文化と地方(栃木)の文化に接点が あり、人間交流があったことがうかがえる」と話され、「今後もさらに(時の流れで所有者が変わり)、栃木市では未発見の作品が 出てくるであろう」と言われた。 参考に、新潮日本美術文庫の「喜多川歌麿」から歌麿の作品を紹介する。執筆者・浅野秀剛氏によると、 “石橋(しゃっきょう)”は、踊り子の冠り物と垂れた髪、愛くるしい両手と表情のバランスが良い作品である。 “深く忍恋”では、煙管(きせる)を手にしたうつむき加減の表情は、何かに憑かれたように激しく強固であり、 深く忍んだ女の情念が画面に満ちている、代表作の一つである。 |
出典:新潮日本美術文庫「喜多川歌麿」 |
栃木保険医新聞2009年8号・投稿 |