平和観音像制作秘話

天谷静雄(宇都宮市)


平和観音像

 宇都宮市の名物と言えば、雷と餃子、それに大谷石があげられるでしょう。 大谷石は太古の昔の海底火山噴火による火山灰が厚く堆積してできたものです。 大谷石の採石場跡地には今巨大な平和観音像が立ってやさしい目で世の移り変わりを 見つめています。すぐ背後には坂東十九番札所の大谷寺があって西の国東・臼杵と 匹敵するような10体の磨崖仏を収めています。平和観音はその前立て観音とも なっているわけです。この観音像がいつどのようにして作られたのか、 隠されたエピソードをご紹介しましょう。

 第2次大戦も終末期近く、旧陸軍の「隼」戦闘機などを製作していた中島飛行機 (現、富士重工)が工場疎開し、大谷採掘場の空洞を地下工場として利用しました (現在、大谷資料館として公開)。市の南方にある中島飛行機の工場からは多数の 工員や徴用工がトロッコ列車で送られました。ところが、たった1機も生産しないうちに 敗戦となってしまいました。

 工場と共に移動してきた工員の1人に上野浪造氏が居り、彼は弟を含めた多数の戦死者の 霊を慰めようと石仏彫刻を思い立ちました。そして故郷の高崎市にある白衣観音に似せた 石仏を彫り付けようと100尺余りの石壁に立ち向かったのでした。ところが2年間でわずか 観音の頭部を彫ったところで資金が尽きて投げ出され、この事業を継続しようと地域の 人々が大谷観光協会を作りました。

 集まった資金を持って東京芸大の飛田朝次郎教授にお願いに行ったところ、「芸術家の立場上 このままの状態で彫刻を続けるわけにはいかない」と言われて仏頭は切断されました。 その結果、33メートルになるはずが、27メートルの像として完成したのでした。昭和29年12月の ことでした。

 平和観音像の手前には同郷の出征兵士の慰霊碑も建てられていますが…大谷石は風化しやすいが、 戦争体験は決して風化させてはならないと、訴え続ける貴重なモニュメントと言えます。

栃木保険医新聞2002年8号・投稿