東北道の花巻JCから釜石道路に入り東和出口で出たら、目指す成島毘沙門天の山はもうすぐそこにあった。 そこは同じ境内に三熊野神社と毘沙門堂が並び立ち、神仏混淆の風を残している。毘沙門堂の中は実は空っぽで、 目当ての毘沙門像はどこに消えたかと思ったら、さらに上段にある収蔵庫に安置とのこと。そこへの階段を上る時、 バスから降りた初老の男女10人くらいの笑いさざめきが後から追ってきた。ついに彼らと一緒に拝観させられる 運命となるが、ネイティブ岩手弁で何を言っているのかさっぱり分からない。 そこには台座となる地天女も含めてトチノキの一本彫の4.7Mの巨像がそそり立っており、雄渾な作風に 心奪われる。左手に宝塔をかかげ右手に戟を握り、全身に力がみなぎっている。平安時代の作で一千年もこのように 立ってきたのだからすごい。これはまさに東洋のダビデ像だと思う。エゾ征伐した坂上田村麻呂に擬せられているが、 地天女の方も悪びれず軽々と持ち上げているという風で、みちのくの歴史の複雑な推移や過酷な自然とのたたかいを 感じさせた。見とれているうちに岩手弁の男女の一行は消えていなくなり、後には楽しく朗らかな空気だけが残った。 帰りがけの参道には毘沙門像の足のレプリカをまつる小堂あり、宮沢賢治の「毘沙門像に味噌たてまつる」の詩碑も あった。田村麻呂が泥道を行軍したであろう故事にちなんで毘沙門像の足に味噌を塗る風習があると言う。近くには 泣き相撲の会場となる土俵もあり、こちらは先に泣いた方の子どもが負け、ということだった。 それから花巻方面に戻り、連休の参観客で賑わう宮沢賢治記念館に来た。ボランティアガイドのおじさんは 保育研修大会参加ついでに来られた保母さんたち相手に「雨ニモマケズ」の詩を朗読して、これは賢治が今生で できなかったことを悔い、輪廻転生の後に、次の世ではこのように生きたいと願った、言わば死に臨んでの遺書の ようなものだと解説された。それから辞世の二首についても解説され、豊作の知らせを聞いて自分の死をみのりに 生かせればと願う利他の心が表れているとも言われた。目を転じて賢治が両親に宛てた遺書の前では2人のご婦人が これを読み下しかねている。そこで私が「お題目」という言葉に因んで、賢治が熱烈な法華経信者となって親に 浄土真宗からの改宗を迫ったものの失敗して家出した、というエピソードを語ってやったら感心された。 賢治の市内の実家は花巻空襲に遭って遺品のかなりの部分は焼失したと言う。その中でも賢治の弾いたセロと 妹トシの使ったバイオリンが仲良く並んでいるのが目に止まった。賢治の生涯に女性の影は少ないが、賢治は24歳の 若さで逝ったこの妹に対してだけは特別の愛情を注ぎ、日本の優れた挽歌の一つに数えられる「永訣の朝」などの詩を 書き残している。日本女子大出の才媛で女学校教師だったと言うが、家出して宙ぶらりんの存在になった賢治を自らの 闘病によって呼び戻した。賢治の詩によって人々の胸に永遠に生きることになった美しい女性だ。 それから北上川にかかる橋を渡って対岸にある賢治詩碑の前に来た。そこは北上川を見下ろす台地上にあり、 母方の祖父が建て、妹トシの闘病場所となり、後に羅須地人協会ともなった家屋があったところだ。その建物は今は 他に移築され、高さ4M位の石碑が東面して立っているだけ。賢治の遺骨の一部や経文もここに埋まっているとのこと。 毎年9月21日の命日にはここで地元の人々によって賢治祭が行われると言う。そこからは北上川の流れや遠く早池 峯山も眺められ、まさに賢治ワールドの中心に立ったという気がした。 この詩碑は賢治の死の3年後に建てられたものだが、記述に誤りがあり、碑文を書いた高村光太郎が戦後自ら筆を とって補筆訂正したと言う。見ると4か所もあった。それにしてもこの碑文は「野原ノ松ノ」に始まる後半部分だけで 「雨ニモマケズ」で始まる前半部分が欠落しているのが何とも不思議だ。そこで記念館のボランティアガイド氏が語っていた 「この詩が昭和18年の修身教科書に採用され、欲しがりません勝つまでは、の軍国主義教育に盛んに利用された。しかも 当時の食糧事情に照らして、一日に玄米四合の食事とは多過ぎるので、玄米三合に、そしてしまいには玄米二合に書き改められた」 との話をふと思い出し、これはこれでいいのだと思った。 さて賢治は1933年(昭和8)鉱山技師の仕事の無理がたたって37歳の若さでこの世を去った。この頃は世界的恐慌の 波が日本をも襲い、軍靴のひびきが不気味に聞こえる時代だ。同年2月には「蟹工船」の作家の小林多喜二が権力による拷問死を 遂げている。文学者の戦争責任をテーマに文学散歩をしてきた私は賢治が本格的戦争前夜に死んで良かった、もし生きていたら、 と思う。そして宮沢家を頼って戦時中から花巻の人となった光太郎こそ「野原ノ松ノ林ノ蔭ノ小サナ小屋」に住んで自らを デクノボーと称した。賢治の生きるはずであった後半生を修羅として生き抜いたのでは、と思う。かく思うと二人の偉大な詩人を 結びつけたその詩碑の前を去り難く、一字一句を胸に刻みつけるべく声に出して読んだ。そして空ゆく雲と川の流れにはるかな時代の 流れをも感じて、世界全体の幸福を願った詩人の心と一体とならんとした。 |
栃木保険医新聞2010年8月号・投稿 |