大震災に消えたK先生からの手紙

天谷静雄(宇都宮市)


私の手元にある三枚の便箋にかかれた手紙、今やそれはK先生の遺書と言っていいものだろう。そもそも世代の異なる先生と私がつながったのは、 劇作家の井上ひさしと東仙台の関係について文学散歩の記事を私が大学同窓会誌に寄稿したことに由来する。3月5日、私が会議で夜遅く帰った時、 「岩手の先生から、同窓会誌にのせた文章についての感想文を送りたい旨の電話を受けた」と妻から報告があった。私は一人よがりの駄文ながら思わ ぬ反響があり、寄稿してよかったと思った。

3月9日午後8時過ぎに帰宅したら郵便受けに封書が入っており、それはK先生からのものだった。私の一文がなぜか先生の心の琴線に触れたらしく、 東仙台は自分の青春のすみかであり、懐かしくて何度もくり返し読んだ。孤児院と教会のある東仙台は特別に「少年の町」と呼ばれていた。多分その 頃、井上ひさし少年もここに住んでいたのだろうとのこと。先生は三陸のR市に住み、隣町にある老人保健施設の施設長をしておられるらしい。厚生 労働大臣表彰を受けた新聞記事コピーも同封されていた。写真を見て83歳でなお現役でご活躍のご様子に感服させられた。

礼状を書くのが面倒だし早い方がよいだろうと思って同窓会名簿で調べて先生のお宅にすぐに電話を入れて見た。最初に奥様が出られて、夜遅くの 電話に不審がられたか「あなたは?」と言う声がはね返ってきた。次に出られた先生はご機嫌な調子で、戦後直後の仙台の事情などをしみじみ語ってく れた。食いはぐれた先生が教会に寄宿して食べさせてもらい、そこで洗礼を受けたこと。仙台駅前から町の辻々には女の人が立っていて可哀そうだった こと(街娼のことだろう)。広瀬川に架かる澱橋が自殺の名所で自分も思い詰めて身投げしようと思ったことなどなど。

思わず話に花が咲いて電話を切るまで30分位かかった。そしてそれが先生の最初で最後の声を聞く機会になるとは知る由も無かった。

実はこのわずか2日後の3月11日午後2時46分に東日本大震災が発生するのである。三陸のR市は大津波でほとんど壊滅状態と聞いて、ネット で先生の住所を地図に描き出して見た。お宅は大きな川の河口近くにあり、とても助かるまいと思われた。ただし先生のお仕事先は隣町の高台にあるので ご無事か。ただし家族はと思って、恐ろしくて電話もできなかった。

一か月たってネットで先生の職場の方を検索したら、「施設長が津波で行方不明」とあり、ああやっぱりと思った。4階建ての市庁舎の屋上に迫る大津波 の映像や全市が壊滅状態となった航空写真も見て、肝をつぶし胸ふさがる思いだった。もしあの夜私が直接電話せず、礼状を書いていたら、その手紙は無事 届いただろうか。電話して先生のお声を拝聴したのも不思議なご縁という気がしてしまう。無常感に浸りつつも、せめてこのいきさつを公表することによって、 先生への手向けの花としたい。そして神の元に召された先生の御霊安かれと祈るばかりである。