10月16日、バスの中のあちこちでピピと音が鳴り出した。放射線量測定器の音である。バスは雨模様の福島市を発って川俣町をぬけて飯舘村に向かっていた。 私は福島県飯舘村を訪れた。それまでのテレビなどで見ていたのと異なり実に美しい村であった。保団連公害環境部主催の公害視察会に参加したのである。 前日の15日夜には、福島市で記念講演と特別報告があった。福島市健康福祉部長の来賓挨拶と、福島県知事のメッセージの後、原発問題住民運動全国連絡 センター筆頭代表委員の医師伊東達也氏による記念講演を聴いた。タイトルは、『国策による災難「原発震災」−謝れ、償え、なくせ原発−現地からの報告』 というものであった。 続いて、福島県相馬郡飯舘村村長の菅野典雄氏(写真)から特別報告があった。『「お金の世界」から「いのちの世界へ」』というもので、「までいライフ」 を進めてきたこと、その「美しい村に放射能が降った」と、除染の緊急性と村民の早期帰村が復興の原点であると訴えた。 |
「までい」とは、左右に揃った手を意味する真手の方言。「丁寧に」、「大事に」、「思いやりをもって」という意味で昔から飯舘村の暮らしの中で使われてきた言葉である。 「スローライフ」と同じ、あるいはそれ以上の意味が含まれているとのことである。 バス2台に分乗して村役場に着いた。役場前の放射線量掲示板には、2.64マイクロシーベルト/時間と表示されていた(写真)。ということは23ミリシーベルト/年と考えなが ら、菅野村長さんの案内で庁舎に入った。 |
日曜日だったので、職員1人が留守番をしていて出迎えてくれた。平日は2人が留守番とのことである。全村避難で留守にしていたにもかかわらず築18年の庁舎内は掃除が綺麗に 行き届いていた。庁舎の回りには、村営の本屋さん、エコの家、特別養護老人ホーム(写真)等があり、見学することができた。特養ホームには130人入居していた。避難生活より 特養にいた方がお年寄りには良いとの判断で残っているのだ。職員は近隣に避難しており、そこから通勤している。線量を考え、短時間の勤務時間で交代となる。中を案内していた だいた。 |
また村内には軽自動車で防犯パトロール(写真)が巡回していた。防犯のためと、放射線で生活を奪われた人たちへの雇用を創出したのである。線量が高い所も巡回しているので、 これも短時間の勤務となっていた。 役場から少し離れたところには、村立民営のクリニックや学校が見えた。帰りのバスの中から、仮設の小・中学校を建てる予定地も見学できた。反省会でその日に測定した線量が 発表された:役場前の草むらは 4.5μSv、松の根元は 5.0μSvであった。 目に見えない放射線が降りそそいだ。人々は原発により全生活を根こそぎ奪われた。こんな理不尽なことが許されようか。除染が進み皆が早く戻れるよう願うばかりである。 (全国保険医団体連合会理事・満川博美) |
栃木保険医新聞2011年11月号・寄稿 |