どくとるマンボウこと北杜夫氏が10月24日、84歳で亡くなられた。大歌人斉藤茂吉の次男で東京都出身。東北大医学部在学中から書き出し、後に芥川賞受賞作家 となった。私の大好きな作家で大学の先輩でもあり、思い入れも深く、これまで追っかけでゆかりの地を旅したこともある。 ドイツの作家トーマス・マンの影響で真面目な作品を発表のほか、数々のユーモア小説も発表している。その中の代表作の「どくとるマンボウ青春記」を今回読み 返し、後半の舞台になっている仙台での生活について読み解いてみた。併せて「或る青春の日記」という仙台での5年間の生活記録についても参照して見た。 それを見ると、仙台の街は空襲で焼け野原となって復興途上にあったせいか「相変わらずきたない街だ」とか「仙台砂漠」とか評されている。青葉山や広瀬川の散 歩で自然との触れ合いもあるが、心ここにあらずと言った風でかえって信州松本での旧制高校時代を懐かしんだりしている。 本来文学志向の青年がオヤジの命令でやむをえず医学部に入っただけで、講義や実習もサボリにサボった。卓球や詩作に耽り、追試験を受けながら何とか進級して いる。花巻にいる高村光太郎に作品を送ったこともあるらしいが、返事をもらえずに落胆しているのが面白い。松本時代のように文学談義で心を通わせられる友人も無 く、中央の文芸雑誌に投稿など、学生時代から文士気取りの生活を送っている。「青春記」で注目の箇所はマンの「トニオ・クレーゲル」で詩人と市民的生活との対立、 葛藤を描いた作品に心酔しているところだ。まさに仙台は北杜夫文学の出発地と言ってよかろう。マン狂いの彼は仙台の一番丁を歩いていて「トマトソース」という看 板を読み違えたくらいだ。 ちなみに北杜夫と言う筆名にも「杜の都仙台」の影響が表れている。もっとも「トニオ・クレーゲル」に因んで当初は「北杜二夫」としたらしく、後で前者のように 書き替えている。 インターン時代も含めれば昭和23年から28年までの5年間仙台にいた。終戦時には、軍国少年だった。焼け跡闇市世代として、ヒューマニズムを基本とした作品を次々 と世に送り出した功績を今は讃えたい。 それと同時に、木造の駅舎や大学病院、基礎医学棟、学食、市電などが、私の在学当時にも残っていたことを付記して、同じ街で青春を過ごした思い出のよすがとしたい。 |
栃木保険医新聞2011年11月号・投稿 |