冬の子規庵を訪ねて、明治の文人の面影に触れる

文ときり絵 天谷静雄(宇都宮市)


糸瓜咲て痰のつまりし仏かな

東京出張の折、ついでと言っては何だが根岸の子規庵を訪れて見た。それは鶯谷駅を下りてラブホテル街を抜けた小路の奥にある。 羽目板塀には本木雅弘扮する海軍大尉秋山真之が大写しになった「坂の上の雲」のポスターが貼ってある。 実はここ3年越しにNHKが司馬遼太郎原作の歴史大作のテレビドラマを放映していて、つい先日、准主人公の正岡子規が死ぬ場面があった。 それを観て、ほんの出来心でここに参ったのであった。

子規は慶応3年生まれでちょうど明治の歴年と年齢が一致する。 命日は明治35年で9月19日、35歳の若さで亡くなったわけだ。 有名な辞世の句にちなみ「糸瓜忌」と称する集いが毎年その日に行なわれている。 俳句を志す者にとってここは聖地と言えるのであろう。実は、本物は昭和20年4月の空襲で焼けて、その後、復元された建物だと言う。

ちょうど文学散歩らしき一行が来ていて、一緒に解説者の解説を聞かされる羽目になった。奥の六畳間に寝そべった子規の写真を掲げての上だ。 聞けば手前の八畳間に多い時で20人くらいで、句会をやったと言う。我々もちょうど20人くらいで、句会の一員になった気分。 さらに写真中の子規にたえずみつめられて何だかきまりが悪いのと、脊椎カリエスで闘病中の患者を見舞う医者の気分になった。  子規は日清戦争に従軍記者として行き、帰りの船中で大喀血した。新聞「日本」を主宰の陸羯南の厚意で社員に雇われ、寝たきりながら俸給を得てこの家に移り住んだ。 そして愛媛松山から呼びよせた母、妹と3人でこの家に10年間住んだ。 当時は少し歩けば郊外の田園風景が広がっていたが、寝たきりの子規はめったに外出せず。 たまに外出の際は玄関口に人力車をつけてもらい、抱きかかえられるようにして乗り降りしたとのことだ。

この時代、雨戸に障子戸が普通だが、子規の部屋の場合、防寒と前庭が見渡せるようにと弟子たちがお金を出し合って当時としては高価なガラス戸にしてくれた。 わずか十坪の庭でもそこは草木を植えて楽しんだ子規にとっての小天地であった。また、ここには左膝を入れて座れるようにわざとくりぬかれた座り机が復元されてある。 重い病気のため立つこともならず、座ることもならず、寝たきりな上に、熱発と体動時には激痛をともなう。「墨汁一滴」には「阿鼻叫喚の地獄もかくや」と記されてある。 こういう体を押して短歌と俳句の革新運動に励んだ子規の精神力やいかにと驚嘆させられた。

ところで子規の同郷の友人である秋山真之は漱石に匹敵する文才がありながら、自ら軍人の道を選んだ。 明治30年、日本海軍の幹部候補生として米国留学する前に、別れの挨拶を兼ねてここへ見舞いに来ている。 子規も軍人や政治家への道を志したこともあったからさぞや話がはずんだことだろう。秋山はアジアの小国日本がもっと謙虚に欧米に学ぶべきことを語った。 子規は短歌革新のため、これから「歌よみに与ふる書」なるものを発表したいと言った。秋山が渡米すると子規は新聞「日本」に「君を送りて思うことあり蚊帳に泣く」との送別句を発表している。

「坂の上の雲」にも出てくる名場面だが、日露戦争を「自衛戦争」とする「明治はよかった」式の司馬史観は、 中国、朝鮮との関係では侵略的帝国主義への道をひた走った時代の本質を糊装するものとして諸氏の批判を浴びている。子規の友人の漱石なども 「三四郎」の作品中、広田先生の口を借りて、日露戦争勝利に酔う日本に対して「亡びるね」と言わせている。当時、与謝野晶子の反戦詩「君死にたまふことなかれ」 なども出たのだが、子規のこの戦争に対する態度は一体どうであったのか。惜しくも子規は戦争勃発の2年前に死んでしまっている。

ところで明治文学の隠れた主人公と言えば、それは結核という病気だ。窓外の糸瓜棚にはありし日のままに糸瓜の実がぶら下がっている。 そこで子規の有名な辞世の句が思い出された。

「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな/痰一斗糸瓜の水も間にあはず/をとゝひのへちまの水も取らざりき」

うまい。実にうまい。諧謔精神に充ちた子規らしい名句だ。自分もいざ臨終の際にあんな名句が吐けるものかと思う。

あとで庭に回ってみたら、半切の蜜柑が木の枝に刺されてあるが、小鳥はやって来ず。ふりかえればガラス戸の中から子規の鋭い観察の目がじっとこちらをうかがっているかのような錯覚に駆られた。

栃木保険医新聞2012年新春号・投稿