小諸なる古城にて、草笛は青春のレクイエム

文ときり絵 天谷静雄(宇都宮市)


糸瓜咲て痰のつまりし仏かな

大学1年時に聴講の日本文学史を担当されたのはH先生だった。その中で島崎藤村が東北学院で教鞭とった1年間が基礎に なって明治の青春を高らかに歌った詩集「若菜集」ができたこと、そもそも「青春」とは藤村による造語であると聞かされて、 仙台に学ぶことの誇りを感じた。寮生活の中では追い出しコンパの際に藤村の詩が原詩の「惜別の歌」が盛んに歌われた。私は 「遠き別れにたえかねて、このたかどのに登るかな」の「たかどの」とは定めし仙台の青葉城址だろうくらいに思っていた。

20歳の夏、信州松本で学生ゼミが開かれ、佐久病院見学へ移動する途中に、小諸市にある懐古園に立ち寄って見た。 園内にある藤村記念館見学で、この小諸時代が若き藤村にとって詩人から小説家への転機になったと知って感無量だった。 園内散策で「小諸なる古城のほとり」の詩碑の前に立つと、眼下に大峡谷然とした千曲川の眺めが開け、否応なく旅情がか きたてられた。そこへ、どこからともなく草笛の音色がプープーと響き渡ってきた。

あれから40年近くたって私はまたこの懐古園に来た。どっしりした構えの三之門と蔦の這う石垣がいかにも古城の趣を漂わせている。 藤村記念館の前には腕組みした藤村の胸像あり。展示スペースは狭いながら、小諸義塾で教えた七年間の事績がよくまとめられている。 藤村が教え子のノートに添削した文章は丁寧にしっかりとした文字で書かれてある。「文章は美麗なるよりは趣味の深さを尊ぶ。 思想の精しきを尊ぶ。又、気象の大なるを貴ぶ。又、品の高尚なるを尊ぶ。」とあり、本当にそうだなあと思う。詩碑の原本となった 掛け軸も実に流麗な文字で書き連ねてあり、私はそこに明治人の背骨を感じた。

藤村の小諸時代は妻冬子との新婚生活や相次いで3女が生まれたことにより、それなりに幸せな日々であったはずだ。 しかし部落問題に取材した作品「破戒」を執筆して小説家に転じるあたりからは暗雲に包まれてくる。すなわち小諸から 東京・西大久保に移った1年の間に病気で3女とも無くし、数年後には栄養失調同然で妻も亡くなる。日本の自然主義文学の 草分けと言われた小説「破戒」はいみじくもこのような家族の血の犠牲をともなって世に生まれ出たものであった。

展示には郷里の馬籠の記念館用に書き残した「血につながるふるさと/心につながるふるさと/言葉につながるふるさと」 と言う文字もあり。藤村は、後に明治維新の改革の夢に破れ狂人としての最期を遂げた父親をモデルに、長大な歴史小説 「夜明け前」を発表する。島崎藤村と田山花袋の両雄によって切り開かれた自然主義文学は、大逆事件を頂点とした明治政府 の思想弾圧を機に社会批判を忘れ、個人の内面に沈潜する「私小説」へと転じていく。この「夜明け前」もあるいは父祖のルー ツを探すという形を変えた私小説であったか。

後に姪こま子との密通問題やそれをカモフラージュするためのフランス留学もあり。時局に迎合して聖戦推進を唱え、 昭和17年にはペンクラブ初代会長として天皇陛下万歳の音頭をとった。藤村は翌年、脳溢血に倒れ、幸運にもこの戦 争の結果を見ずに人生を終える。

このように文豪ながら時代に翻弄された生き方には心酔いできない。しかし仙台や小諸時代の七五調の詩歌にこめられ た青春の熱情には今でも心揺さぶられるものあり。それから発展して五七調の「小諸なる」の詩は、時代精神を反映した 内省的な青春挽歌と言うべきか。

そんなことを考えながら園内をそぞろ歩いたら、プープーと草笛の音色が聞こえてくる。保存会の人達がやっているらしく 「草笛のふき方」と言うパンフも頂いた。近くに草笛演奏機なるものもあり。ボタン押したら、草笛老師こと横山祖道師 (1907〜1980)が22年間に亘り吹いていた草笛の音色が懐かしくよみがえってきた。とたんに私は胸が熱くな り、かつてこの付近で出会った黒い僧服姿の老師に再会した思いがした。

栃木保険医新聞2012年8月号・投稿