百歳詩人柴田トヨさん、その誕生と死

天谷静雄(宇都宮市)


柴田トヨさんが1月20日に101歳で亡くなられた。 医療生協の診療所で長く訪問診療していた関係で私も何度か自宅に往診したことがある。

アララギ派に属する息子さんの指導で初めは短歌をやっていた。90歳頃からは詩作を始め、 産経新聞の1面左上の「朝の詩」と言う欄に投稿して何度も採用された。選者の勧めもあって詩集 『くじけないで』を出したのが98歳の時だ。自費出版で「位牌替りに」出したつもりが評判呼んで版を重ね、 150万部以上も売れた。

天災や殺伐とした世相にピッタリ合ったと言うべきか。短い詩で誰にも分かりやすい言葉で人生の応援歌となった。 詩作は主に夜間眠れないときに考えて書きつけておき、後で息子の健一氏が来て添削してくれたとのこと。

トヨさんは、明治44年、栃木市の生まれ。裕福な米穀商の1人娘だったが、家運が傾き、料理屋などへ奉公に出た。 奉公先でいじめられ、橋のたもとで泣いていた私を友人のふーちゃんが励ましてくれたという『幸来橋』と言う詩がある。 それから、1度目の結婚に失敗し、33歳の時、調理師の柴田曳吉氏と再婚。翌年、1人息子の健一氏が生まれた。

当時は日の出町の五軒長屋に住んでいたらしい。宇都宮から帰ってくる夫を駅まで迎えに行き、3人で仲よく帰ったという 『思い出 U』と言う詩はほほえましい。これは本人が1番好きな作品ということだ。

昨年夏にはとちぎ蔵の街美術館で「百歳の詩人、柴田トヨ展」が開かれた。それをわざわざ見に行き、 ゆかりの場所を歩いても見た。トヨさんと言うといつも前向きのイメージでとらえられがちだが、 やはり悩み多き女性であることには変わりない。私にとっては愚痴と弱音を吐く詩の方が彼女の実像にぴったり合うようで好きなのだが。

夫と死別し60歳台からは小さな借家で1人暮らしとなった。短歌や詩作を始めたのも1人息子との心の交流を深めたい 意図もあったようだ。まさにこの息子さんあってのトヨさんであり、トヨさんあっての息子さんだったと言うことになる。

人間、90歳過ぎると知的な減退は避けられず。これは笑えぬ話だが、「トヨさんにつづけ」とばかりに他県のあるデイサービス 施設が利用者さんたちに詩を書かせて見たところ、全然ダメだったと言う話を聞いたことがある。トヨさんは、一昨年、 私が臨時往診した際も10数年ぶりなのに「天谷先生ですか?」と言い当てて来てうならされた。

思うに詩人の特質とはみずみずしい感性と豊かな想像力であり、それは青春時代に誰もが持ち合わせたものではなかろうか。 それに限らず右脳を働かせて芸術的創造力を発揮することは超高齢化社会に立ち向かう我々にとっても重要なヒントになるのではないか。

そのことを身をもって示して頂いたトヨさんに心から感謝し、ご冥福をお祈りしたい。

栃木保険医新聞2013年2月号・投稿