井上ひさしの戯曲「頭痛肩こり樋口一葉」は明治二十三年から三十一年までのそれぞれの盆送りの日に女性の亡霊がこの世への恨みを述べて次々と登場、 遂には一葉自身も亡霊になると言う哀しくも面白いストーリーだ。ご一新を迎えたが、女性の地位の向上はさっぱり無い。横暴な夫にかしづくか、 遊女になって体を売るしか無い。そう言う理不尽な世の中に小説作品をもって抵抗したかったと、最後に一葉自身の言葉として語らせている。 そもそも一葉は没落士族の家に生まれ、父や兄たちが次々と没する中で、一家の戸主としての重い責任を負わされた。満足な学歴も無い中で持ち前の 文才を発揮して女流作家として筆一本で身を立てようとする。丸山福山町に移ってからは猛烈に小説を書き出し、それは後に「奇跡の十四か月」と言われている。 中でも最高傑作と言われるのは「たけくらべ」だ。これは一葉一家が吉原遊廓街に近い竜泉地域で小問物屋を開業した時代の体験が下地になっていると言う。 そこで今回は台東区竜泉地域にある一葉記念館を訪れてみた。 一葉記念館は一葉記念碑がある公園の東側に南北に細長い建物としてある。一葉肖像が新五千円札に採用された記念に平成十八年にリニューアルオープンしたとのことだ。 三百円払って入館したが、そこには羽石光志作の一葉の肖像画が架けられている。鏑木清方作のと違って猫背でも陰鬱でもないすっきりとした美人として描かれている 。写真を見ると母娘ともに美人の家系で、妹くにの方がさらに美人のようだ。 館内には一葉が書いた原稿、手紙、着物、髪飾りなどが展示してある。とくに筆跡の流麗なのには驚いた。一葉は頭脳明晰ながら母親の反対で小学校より上には上げてもらえず。 父親の計らいで上流社会の子女が通う和歌の塾荻の舎に入れてもらったが、ここでもめきめき才能を発揮した。 しかし嫁入り道具のたしなみに過ぎない和歌の道に飽き足らなかったことと、女でも小説を書いて食べていけることを知って、 本格的に小説を書き出した。そしていったんスランプに陥って始めたのが、竜泉地域に移住しての小問物屋だった。 一葉の最高傑作と言われる小説「たけくらべ」はこの当時の体験が元になっている詩情豊かな作品だ。文体は雅俗折衷体と言って、 地の文を雅文、会話は俗文で書いている。現代人には読みにくいが、声に出して読むと美しい。少年少女の微妙な心理を描いた作品としては日本初であり、 時の文壇の大御所の森鴎外や幸田露伴などに激賞された。正岡子規なども「一葉何者ぞ」と唸っている。 一葉最後の住居となった丸山福山町には文学志望の青年が集いサロンを形成した。一葉はここに至っても有頂天とはならず 「女ゆえに珍重されるだけか」と反省と自重の念をもらしている。しかしこれからという時に結核を発病し、明治二十九年十一月、二十四歳の若い命を終えた。 それはまさに流星の如き一閃の輝きであった。ここで井上ひさし曰く、明治文学が言文一致体に進む過渡期にあり、 多分長生きしてもこれ以上の成功は望めなかったのではないか、作家として絶頂期に死ぬと言うことは幸せだったのではないか、との辛辣な意見だ。 しかし、もう少し生きて文壇で活躍してほしかったと思うのは私だけか。 昨年に知り合った批評家の斉藤緑雨は一葉文学の本質を「泣いての後の冷笑」とものの見事に言い当てた。一家の戸主として稼ぐことを許されず、 士族としてのプライドにも縛られていた。貧困に喘ぎ、社会の底辺の人たち、とくに虐げられた女性の立場を代弁、告発して単なる売文作家の域を抜け出ようとした。 まさに自らの命を切り刻んで生み出したものが一葉文学ではなかったか。 ところで姉後肌でニヒルな一葉にも恋はあった。没後、一葉日記の公表で、半井(なからい)桃水という大衆作家に思いを寄せていたことが発覚した。 小説家としての指導を受けようと師事した十三歳年上の男性であった。一葉のもう一つの傑作「にごりえ」は丸山町で交流のあった銘酒屋の酌婦を題材にしたもので、 妻子ある男を破滅させ心中する女の悲哀を描いている。そこに登場の高等遊民としての結城朝之助のモデルはこの半井桃水であろう。 年上ながら美丈夫でフェミニストで実に紳士的に一葉に接している。ある誤解からこの人と決別することが、一葉文学に飛躍を与えているのだから面白い。 その心境を綴った一葉日記はまた日記文学の最高傑作と評されている。 ああ一葉女史に貧困と結核無かりせば、と思うこと切なり。明治二十年代は女流作家輩出の時期ではあるが、ただし彼女らの出自が恵まれていただけに、 一葉ほどに社会の矛盾を突き後世まで読み伝えられる作品は生み出せなかった。その意味で井上の言うように、たしかに短くも美しく燃えた人生ではなかったかと思う。 ちなみに一葉と言うペンネームの由来は、達磨大師が芦の葉に乗って揚子江を渡ってきた故事に因んで「達磨さんも私もおあしが無いから」と洒落たものらしい。 記念館の展示をじっくり見て回る余裕が無かったので、最後に受付で展示目録を買うことにし、財布から五千円札を取り出した。 そしてお札の上に一葉の肖像を見た私はまたまた人生の皮肉と悲哀を感じてしまった。 |
栃木保険医新聞2014年新春号・投稿 |