日本の女医第1号の故郷を訪ねて

文ときり絵 天谷静雄(宇都宮市)



最初に、人気作家の渡辺淳一氏が今年(二〇一四年)三月三十日、享年八十歳で亡くなられたことに謹んで哀悼の意を表したい。

何ごとにもパイオニアにはそれなりの苦労がつきまとうものだ。札幌医大の整形外科医師でもあった作家の渡辺淳一は、 日本の公許女医第一号となった荻野吟子について伝記的小説を書いている。それは一九七〇年発表の『花埋み』という作品だ。

多分、北海道の僻地医療に献身した吟子の存在を知り、その経歴を追いつつ彼女の故郷にたどり着いたのであろう。 小説の冒頭にはまだ利根川の水運盛んなりし頃の埼玉県熊谷市付近の情景が美しく描かれている。 今、その故郷の熊谷市に荻野吟子記念館が建ったと言うので見に行った。

熊谷市の北、旧妻沼町の中心街から東走したところ、農家のおばさんが野良仕事をしている畑の中にその建物はあった。 名主だった荻野家の長屋門を模して建てられたと言うことだ。入館無料の記念館に入ると、 パネルと遺品などで吟子の波乱に富んだ人生が紹介されている。

吟子は、一八五一年(嘉永四年)利根川の近くの旧俵瀬村に名主の家の末娘として生まれた。 十六歳で幸せな結婚をしたはずが、夫から淋病をうつされ、子どもの産めない体になって実家へ戻される。 東京に出て治療を受け、男の医師によって局部の診察を受けることに激しい羞恥心を感じ、同性にそのような哀しみを与えぬためにと医師を志す。

その道は容易に開けぬが、ようやく医師としての資格を得られて開業し、女性の地位向上のための社会運動にも参加する。 その歩みは目覚しく華やかなものであったが、三九歳の時、キリスト教を通じて知り合った 十三歳年下の志方之善(しかたゆきよし)と結婚し、未開の地であった北海道に渡る。

開拓と伝道に従事した夫は無理がたたって病没し、吟子は再び孤独の身の上となる。 十年間のブランクにより彼女の修得した医術はすでに時代遅れのものになっていた。 漁師町の瀬棚でしばらく僻地医療に献身後、失意のまま帰京した吟子は、一九一三年(大正二年)六二歳で肋膜炎と脳動脈硬化のためこの世を去る。

美しく哀れな人生をふり返って、吟子がもし淋病に冒されなかったら、若くて向こう見ずな男と再婚さえしなかったら、 と思うと感慨は尽きない。けだしこれも運命と言うものだろう。私はむしろそこに明治人のロマンと気概と言うものを感じてしまうのだが。

ちなみに埼玉県は彼女を県内出身の三偉人の一人に数えていて、『花埋み』の小説は、これを種本に演劇にもなった。 それが平成十年に上演の『命燃えて』だ。記念館には三田佳子の美人顔と吟子の面影が重なって余計に心ひかれた。

記念館の右手には吟子の胸像と顕彰碑がある。そのすぐ裏手にある利根川の大堤防に上がったら、 青空を写して広い反物のような利根川を前景に、遠く上毛三山や白く光る雪を頂いた日光連山も眺められた。

没落した吟子の実家は実物の長屋門が他に移築されているばかりで跡形も無し。 元はこの堤防から利根川の河原の前半分を占める広大な敷地にあったということで、はるかな思いがした。

吟子の墓は東京・雑司が谷墓地に営まれていると聞くが、その魂はきっとこの懐かしき地に帰り遊びたわむれていることだろう。 春にはこの大堤防が一面の菜の花で包まれると言う。それこそ『花埋み』の美しい情景が想像され、 できればその季節に再度ここを訪れてみたいと思った。

栃木保険医新聞2014年8月号・投稿