信州追文の秋はしみじみ
〜堀 辰雄文学紀行〜


天谷 静雄(宇都宮市)



今回の文学散歩は堀辰雄の人生終焉の地となった信州追分を訪ねてみた。高校時代の国語教科書で『浄瑠璃寺の春』という作品と出会って何とやさしい文章を書く作家だろうと思った。結核で早逝した作家だが、彼の全作品は死とたえず向き合った真摯な姿勢に貫かれている。それから戦争の時代にあって戦争について一切書かれなかったことが作品の抒情性と文学性を高めていると言えよう。

軽井沢から車で西走し、信濃追分駅を左に見過ごしてもうすぐだと思っていたら、右手に分去れの碑を見つけて行き過ぎていることに気づいた。そこで分去れの碑から戻る形で裏通りにあたる旧中仙道に入る。目当ての堀辰雄文学記念館は意外と立派な門構えだ。これは追分本陣の門を移築したものらしい。道をはさんで北側には彼が定宿にした油屋旅館がある。これは元は南側にあったのを火災後、再建したものらしい。

四百円払って入館するが、展示内容はよく整理吟味されていて、彼が師事した室生犀星や芥川龍之介とのつながりもよく分かる。その文学活動は戦前に限られ、戦後は「病床に夢を育んだ」時代だ。死の前年の病床にある写真を見たらかなり衰弱した姿で痛々しい限りだった。

年譜を見ると、一九四三年(昭和十八年)には多恵子夫人と二人で奈良を観光し、『大和路・信濃路』を雑誌に連載発表している。かの激戦時代に何を悠長な、と思われるかも知れないが、彼の心の中には国家の危急存亡の時にこそ古典への回帰、憧憬と言うか、「滅びの美学」なるものへの志向がはたらいたのであろう。

初版本や自筆原稿も展示されていて、いずれも古い時代の香りを放っている。彼が身につけた背広、ベレー帽、マフラー、杖などの展示もあり。『風立ちぬ』の小説のモデルとなった婚約者矢野綾子の写真の麗人ぶりにはうっとりとさせられた。

園内に保存中の旧堀辰雄邸も見た。四畳半の部屋には読まずとも布団の周囲にうず高く本が積み上げられていたとのこと。ついに庭先に書庫が作られることになるが、そこへは一歩も足を踏み入れることなく終わった。その書庫ものぞいて見たが、あの病室からここまでと、病人の熱い視線を感じないわけには行かなかった。命日は一九五三年(昭和二十八年)五月二十八日であり、四十九歳の早過ぎる死であった。

それから堀辰雄がよく散歩に訪れたという近くの泉洞寺を見に行く。禅寺らしい佇まいで、山門前には「不許山門入薫酒」の大きな標柱あり。境内を一巡したが、目当ての石仏は見つからず。そこで洗濯干ししている寺の若奥さんに声かけてたずねたら、寺の背後の墓地の入り口付近だと言う。その墓地内もぐるぐる歩き回ってしまい諦めて帰ろうとしたら、あった、あった、墓地の入り口の植え込みに隠れるようにしてその石仏はあった。

その姿はどこにでもある如意輪観音の半跏思惟像のようだが、稚拙な彫りで風化した顔は定かならず。口をポカンと開け左手を頬に当てている姿はユーモラスだ。地元では「歯痛の神様」として親しまれているらしく台座に賽銭も上がっている。 そこで持参の文庫本を取り出して『大和路』の冒頭の「樹下」と題する一節を読み上げて見た。そこに書かれている頬に当てた「右手」とは「左手」の間違いであることに同行の妻がすぐに気づいたが、これは誤植か。いずれにしても初恋の人に再会した気分で喜んで帰る。道ばたにはコスモスの花が揺れていて、たしか追分ゆかりの詩人の立原道造の詩にはこんな情景描写が無かったかと思う。追分宿にはいくつかそれらしき古建築はあるが、今はさびれて打ち捨てられた宿駅というわびしさあり。記念館の近くにはのれんを下げた古書店ができていたので立ち寄ってみた。

そこであらためて堀辰雄の『大和路』の本を手にとって読んで見た。やはり観音の頬に当てている手は「右手」とあり、誤植でないことが分かった。堀の思い違いか、それとも何らかの作為からか、まったく堀の亡霊に大きな謎をかけられたようで面食らう。同時に、この世の人間の不幸を歯痛になぞらえてじっと耐えているような石仏の姿も思い出されて妙に印象に残った。

栃木保険医新聞2015年8月号