「野麦峠」の哀話に想い馳せた飛騨古川文学紀行

文ときり絵 天谷静雄(宇都宮市)



飛騨古川に来て駅前から歩いたら、道路が赤茶けて見える。どうやら道路の中央に埋設の消雪パイプのせいらしい。古川まつり会館に来たら、ちょうど会館前の広場に群衆がいて盆踊り大会が開かれるところだった。会館では豪華な山車の展示とそれから起こし太鼓まつりを録画した迫力ある3D映像を観た。起こし太鼓とは半裸の男たちがぶつかり合う勇壮なまつりだ。四月、飛騨の春を告げるまつりとして行なわれる。山車も高山まつりに匹敵する見事さだった。

  

それから白壁土蔵街に沿う水路に鯉が群れ泳ぐ小道を歩き、目当ての「布紙木」と言う店に来て菅沼ご夫妻と出会った。古川百景を描いた夫の切絵作品は素晴らしく、そのうちの何点かを買い求めた。奥さんから聞いた話では、ここは冬の積雪で屋根が重たくなるので瓦屋根ではなく皆トタン屋根を採用とのこと。その話からも雪国飛騨の人々の苦労が偲ばれた。

それから荒城川沿いにあるさくら物産館に行って店内を覗く。二階にあるはずの早船ちよ館は訪れる者も無いのか、既に閉鎖されていて、かわりにそこにあった早船ちよの評伝本を買い求めた。そもそも早船ちよとは大正三年、飛騨古川に生まれ、飛騨高山に育った文学少女だった。実家の破産に会い、十八歳で単身上京したが、そこで教育運動家の井野川潔と知り合い結婚する。そして戦後は埼玉に住んで児童文学作家となり、ベストセラーとなった『キューポラのある街』を書いた。

『キューポラのある街』とは知る人ぞ知る、鋳物の町の川口を舞台にした青春小説である。一九六二年、浦山桐郎監督により映画化され、吉永小百合が主演して有名になった。年譜をたどれば、その早船ちよが上京直前には諏訪にあった片倉製糸工場に勤めていたことが分かる。そこで製糸工女あがりの作家かと思ったが、さにあらず。当時の製糸工女のほとんどは十二歳から十五歳前後であり、この年齢を過ぎて糸とりの技術を身につけるのは難しいとされて、工女にはなれず。舎監見習いで雑役婦のようだった。それでも製糸工女の苦労は目の当たりにしたはずで、その体験が後の早船ちよ文学に生かされたはずだ。私はそこに労働を重んずる飛騨女の気骨を見た思いがした。

さてそこからまた白壁土蔵街を歩き直して、南端にある本光寺に来る。本光寺は、日露戦争の頃、街を襲った大火で焼失し、その後立派に再建された。親鸞を開祖とする浄土真宗の寺だ。この寺の脇で荒城川にかかる赤い鉄橋の前に小さな文学碑あり。山本茂実作『あゝ野麦峠』の一節が次のように書かれてあった。 「二月もなかばを過ぎると 信州のキカヤ(製糸工場)に向かう娘たちが ぞくぞくと古川の町へ 集まって来ます みんな髪は桃割れに 風呂敷包みをけさがけにして 『トッツァマ・カカマ達者でナ』 それはまるで楽しい遠足にでも 出掛けるよう元気に出発して 行ったのでございます」

そばに御高祖頭巾かぶった工女二人の小さなブロンズ像あり。橋の対岸には娘たちが集結し宿泊した大きな割烹旅館の「八つ三」があり、その向こうには娘たちが難儀して越えたであろう乗鞍の山々が望まれた。ちなみに『あゝ野麦峠』は一九七九年、山本薩夫監督によって映画化され、私も観たことがある。製糸工場での奴隷的労働と、そこで病を得て兄の背負子に乗っての帰り道、峠の上で「アー飛騨が見える」と言ってこと切れた政井みねを俳優の大竹しのぶが好演していて涙を誘われたものだった。

山本茂実はこの元工女たちにインタビューしてすぐれたノンフィクション作品を書き上げた。それは明治百年と言われた一九六八年のことだ。昔から飛騨は下国と言われ、現金収入の道の断たれた山国だったから、こうやって娘を県外に出して稼がせるしか無かった。しかし苦しいことばかりではない。中には百円工女と言って優秀な働き手として故郷に錦を飾った例もあった。娘たちが金を持って帰省の際にはさぞやこの街は賑わい華やいだことだろう。現に今も続いている三寺参りとは、正月に帰省した娘たちが着飾って真宗の寺三ケ寺を回る行事であり、そこで嫁選びも行なわれたと言うことだ。 

そこでは街に一軒だけある和蝋燭屋の赤い蝋燭が灯されると言う。その三嶋蝋燭店にも立寄って店内を覗いて見た。雪の降る川端に灯される蝋燭の林立と着飾った娘たちの姿を思うだけで、まるでおとぎ話の「夕鶴」のような美しい情景だと思った。

千本格子の並ぶ古民家と古い醸造元、軒先を飾る「雲」と言う白い彫刻を見て回るだけでも心が洗われた。できれば真冬に来てこの雪国のメルヒェンの世界に触れたいと思った。

翌日は高山に行ってあいにくの雨の中、傘さして古い町並みの上三之町や朝市を見て回った。時間があったので、町はずれにある飛騨民俗村にも入園して古民家を見て回った。移築された合掌造りの家では、養蚕業に関する展示あり。そこで初めて蚕の幼虫と言うものにお目にかかった。蚕と人間の歴史は五千年と言われるが、成虫になっても飛ぶこともできず、絹糸を吐いて死んで行くだけの蚕の運命が何とも哀れで、飛騨出身の製糸工女の運命と重なって見えた。

同時にこの生糸生産が日本の近代化を陰で支え、貴重な外貨獲得で日清、日露の両戦役を勝ち進む力の源泉となったと言う日本の近現代史についても深く思いを馳せられた。

栃木保険医新聞2016年新年号・投稿