大分臼杆
〜野上弥生子の故郷を訪ねて〜


天谷 静雄(宇都宮市)



日豊本線を下ってたどり着いた大分・臼杵駅は何の変哲も無い田舎駅であった。駅前広場には大きな臼杵石仏大日如来像のレプリカあり。そこからまず古い商家の並ぶ通りを歩いて、小手川酒造の一角を利用した野上弥生子文学記念館に来る。臼杵と弥生子を紹介したビデオがよく出来ている。二階にはゆかりの品々を展示のコーナーあり。少女時代にこもった勉強部屋と言うのも見た。昭和四六年受賞の文化勲章も飾られていた。実はこの文化勲章受賞まで野上弥生子とは何者であるか、地元の人々にもあまり知られていなかったと言う。

無理も無い。日本文学全集にもあまり載せられていない孤高の作家なのだ。明治一八年、臼杵の酒造家の長女として生まれ、女学校卒業後、木曜会に出席の英文学者の夫豊一郎を通じて夏目漱石の薫陶を受けた。金持ちのお嬢さんの立場がものを言い、主婦業のかたわら小説を書き始めた。同じお嬢さん作家の宮本百合子と親交があり、社会の底辺にある人々に思いを馳せた。百合子の小説『伸子』の向こうを張って書き著したのが小説『真知子』である。ともに女性の結婚と自立に関する煩悶を描いた秀作であるが、弥生子の方は社会主義を是としながら運動への参加は拒絶して行く若い女性像を描いている。事実、弥生子自身もそのように行動し、後に「同伴者作家」と呼ばれた。

ところで臼杵訪問を前に読み漁った弥生子の作品中には『迷路』と言う反戦小説があることを知った。昭和十一年の二・二六事件に始まり軍靴が響く時代、学生運動でつかまり転向した菅野昭三を主人公に、親戚知人の群像と政財界の動きまで活写した超大作である。これは戦前に伏字混じりで書いた短篇をつなげ、昭和三十一年までかかってようやく長篇小説に書き上げたものだと言う。当時七十一歳になっていたが、恐るべき精神力である。

『迷路』には准主人公として多津枝と言う実に魅力的な女性が登場する。代議士の娘で クールニヒリズムと言うか、省三たちの思想に共感はしながら貧乏を何よりも軽蔑し、思想に殉じることはできないとうそぶく。銀行家の男と愛の無い結婚をし、舌禍で警察に召喚され、上海への飛行機事故がもとで死ぬ。ここにも弥生子の分身が生かされていると思う。

戦時中は北軽井沢にできた大学村に疎開し、戦後もそこを根城として作品を書き続ける。

代表作の『秀吉と利休』は七十三歳から五年間かけての執筆となった。利休の切腹に至る罪の理由は、著者によれば「唐御陣〔朝鮮出兵〕は明智討ちのようには行くまい」という失言が秀吉の逆鱗に触れたためとされている。時代に名を借りてはいるが、ここにも弥生子の反戦思想が如実に示されていると思う。

記念館では弥生子の生涯を解説したテキストを買った。それを読むと、十五歳で上京して当時、キリスト教的自由主義教育で名高い巣鴨の明治女学校に入学し、六年間在籍したことが、後の作家野上弥生子を生む文学的土壌になったと書かれてある。弥生子は晩年『森』と言う長篇にこの時代の懐かしい思い出を書き記すのだが、完成直前に昭和六十年、九十九歳で亡くなった。このようにスケールの大きい作家として十分長命を保ち、死ぬまで平和へのメッセージを書き続けた生涯は天晴れと言うしかない。

それから旧城下町の面影を残した市内を散策し、キリシタン大名で南蛮貿易を奨励した大友宗麟ゆかりの臼杵城址も観て回った。弥生子は実はこの宗麟を題材とした小説を企図していたが果たせなかった。本丸跡には弥生子の文学碑あり。『迷路』の一節で、省三の年下の友人の慎吾が応召を前に語る煩悶の言葉がこのように書かれてある。

「実際、僕、いま死んだら生まれて来なかったと同じに、なんにも知らないで死ぬといっていいでしょう。(中略)決して二度は来られない地球に、何年か長く住むというだけでも、素晴らしいことです。そのためには僕のようなものだって、僕なりになにか世の中に役立つことができそうな気がするけれど、死んじまえばそれっきりです。」なるほどそれは反戦作家野上弥生子らしい引用だと思った。

翌日はバスに揺られて深田の里を訪れ、平安末期から鎌倉時代にかけて彫られたと言う見ごとな臼杵石仏を見て回った。落ちていた大日如来の仏頭も旧に復されて国宝に指定された。実は熊本・大分地震のさなかに来たので、また仏頭が落ちてやしないかと心配したのであったが。途中、地元の人々とも楽しく交流、交歓できて、大変思い出深い旅となった。

栃木保険医新聞2016年8月号