望郷の詩人
野口雨情の生家を訪ねて


文ときり絵 天谷静雄(宇都宮市)



野口雨情は日本の三大童謡詩人の一人に数えられる。生まれは北茨城だが、北海道から福島いわき、水戸、さらに東京へと放浪して歩き、疎開先の栃木県宇都宮市郊外で六二歳の生涯を終えた。雨情の名は忘れられても、その童謡作品は人々に親しまれ歌い継がれている。羨ましい限りである。私は市内鶴田町の羽黒山麓に雨情旧居があることは知っていたが、その出自や雨情作品の生まれた背景については何も知らなかった。そこで今回、北茨城にある雨情生家を中心に文学散歩を試みた。

宇都宮から高速道に乗って一時間半位走ったら海沿いの国道に面した雨情生家にたどり着いた。そこは観海亭ないし磯浜御殿とも呼ばれる、二階部分に高欄のついたなかなか洒落た立派な建物だ。隣に資料館あり、「しゃぼんだま」「七つの子」「あのまちこのまち」「あおいめのにんぎょう」「あかいくつ」「しょうじょうじのたぬきばやし」「こがねむし」「うさぎのだんす」などの童謡絵本が飾られてある。雨情の書や愛用の品々もあり。ゆかりの人物としては作曲家の本居長世と中山晋平それに詩人の石川啄木が挙げられている。啄木とは明治四十年十月、小樽日報の社員時代に親交があったものらしい。

雨情は廻船問屋を営む名家に生まれ、その先祖は楠正成の弟の正季に由来し、もちろん家紋は菊水で代々の勤皇家であった。最初の妻ヒロは栃木県喜連川の素封家の高塩家から迎えた。しかし、野口家破産の危機に際し累を及ぼさないために十年後には協議離婚した。後に跡取り息子の雅夫と同居の形で代々の家屋敷を守らせるようにしている。

雨情の直系の孫であると言う野口不二子さん(七一)が館長をやっており、ここで直接お話を聞く機会を得た。聞けば、ここ磯原も大震災の際には六メートルもの津波に襲われたとのこと。生家の一階も柱だけ残して大破し、国や県の援助で二年半後にやっと元通りに復元できた。庭木も塩ぬきしてよみがえった。銅板葺きの門の上を覆うさるすべりの花もようやく咲いたが、来年は枯れてしまうかも、と寂しげに言われた。

津波襲来にこの人も必死に逃げたが、ここ北茨城市では六人の犠牲者が出たとのこと。それから雨情が少年時代に登り遊んだであろう、近くの島山の天妃山に登る。そこからは太平洋の広い海原が見渡せた。しかし、道の途中には家が流されて空き地になったところあり。モルタル壁が崩落したままになっている家もあり、被災のものすごさを感じさせた。

そこで不二子さん執筆の「野口雨情伝」を入手したのを読んでみた。そこには祖父雨情への思い入れ深い逸話が盛られている。雨情は結局ヒロとは復籍せず、二十歳も年下のつると再婚して上京し、苦労しながら詩壇復帰を目指す。その中で生まれた『船頭小唄』(原題は「枯れすすき」)が大ヒットし、売れっ子詩人となって、童謡雑誌にも次々発表の機会を得た。さらに地方地方の風物を連ねた新民謡も多作して、童謡・里謡詩人野口雨情の名は一挙に全国に知れ渡ることになった。

雨情の成功は、もとはと言えば東京専門学校時代の恩師の坪内逍遥からの助言に由来する。逍遥からの手紙には「思ひ切ってローカルカラーを主とした歌」や「俚謡を試みては如何」と言う文言がしたためられている。そのことが雨情を大正デモクラシーの時代にふさわしい民衆派詩人たらしめたのだ。現在、そのような雨情詩碑は全国至るところに数えれば百基以上はあると言うから大したものだ。ちなみに雨情は後年『都会と田園』と言う詩集を出して、その中で故郷を捨てた悲哀をも歌っている。その点、啄木と相通じるものあり、ともに望郷の詩人と言うべきだろう。時代はやがて戦争の暗闇へと突入するが、軍部の要請で軍歌を書くことだけは避けた。「私は生涯、童心を貫く」と言って。

それから近くにある北茨城市歴史民俗資料館・雨情記念館も訪れてみた。前庭には雨情像を中心に男の子と女の子を配した『シャボン玉』の像あり。哀調帯びた『シャボン玉』の歌詞は、若い頃小樽で亡くした長女「みとり」の鎮魂歌のようにも聴こえる。不二子さんの『雨情伝』の表紙裏には付録として代表的な二十曲を収めたCDもついており、それを車内でかけて楽しく聴きながら走って来た。

ところで雨情の命日は昭和二十年一月二十七日だ。あと半年後には雨情があれほど待望した自由と平和の新しい国がやってくると言うのに、永眠してしまったのだ。終焉の家も知っているだけに感慨深い。せめてあと五、六年は生きて童心尊重の新しい詩を発表し続けてほしかったと思うのは私だけか。さて地下の雨情は今の故郷や日本をどう見ているか。震災の傷痕も癒えない、ましてや原発事故の影響も大きい北茨城を訪ねて、私は今こそ平和を愛し子どもを愛した雨情の心の復活をと願った。

栃木保険医新聞2017年新年号・投稿