初孫誕生で娘にプレゼントしたのがいわさきちひろと相田みつをのコラボ絵本だったこともあり、相田の作品と人生に関心をもった。そこで、ゆかりの地足利を訪ねようと五月連休中、妻と二人、半日のドライブに出かけた。 県南では刈り入れ前の麦畑が美しく広がっていて、いかにも麦秋と言う感あり。渡良瀬河畔に車を置いて、まずは足利家ゆかりの古刹 鑁阿寺を参拝。寺の東北方、堀ばたに二階建ての木造生家を見つけた。参道脇に彼が通いつけた割烹料理店「なか川」があり、ここでおいしいそば団子やにしんの甘露煮つき天ぬき御膳と言うのを注文して食べた。ちなみにここのにしんそばが相田の大好物だったとのこと。女主人が売れない時代の相田のパトロンになったとのことで、所蔵する作品の一部が店内に飾られてあった。 寺の西門から出て、古い街並みの中を歩き、少々道に迷いながら曹洞宗高福寺に至る。本堂のほかに地獄の十王が並ぶ地蔵堂があるだけで何の変哲も無い寺だ。相田はここの武井哲應和尚に師事しながら、自らは非僧非俗の人生を送った。書家および詩人として売れもしない作品を次々と発表した。バブルがはじけて、日本が不景気の時代に突入して人々がようやく心の問題に目覚めた頃、彼の作品が一躍脚光を浴びるようになる。その中の一作品に「七転八倒/つまずいたりころんだりするほうが自然なんだな/人間だもの」があり。この言葉にどれだけの人々が勇気づけられたことか。しかし、死の闇がたちまち六十七年の人生を呑みこんだ。一九九一年十二月十七日死去。死因は脳内出血であった。 さらに西方へ歩いて織姫神社の東山麓にある浄土宗法玄寺に至る。相田みつをの墓は墓地の中段の左側にあった。墓石に刻む「相田家之墓」とはみつをの字のようだ。隣に昭和十九年、ビルマにて戦死の「相田武雄之墓」と言うのがあったが、これは兄弟だろうか。 そこからは足利の市街が一望できた。相田もよいところで眠っているもんだなあと思う。 それから織姫神社の急階段を登ったら、足が疲れて汗が吹き出た。ここからは渡良瀬川とその対岸にある小高い山が望めた。浅間山と言い、山麓の借宿町や八幡町が彼の居住し散策した所だ。階段を下りて通りに出たところに老舗の香雲堂あり。ここで名物の「古印もなか」を御土産に買った。その包装紙は相田みつをのデザインによるもので、相田の文字による栞も挟まれていた。そこにはこう書かれてあった。「ひとつの事でもなかなか思うようにならぬものです/だからわたしはひとつの事を一生けんめいやっているのです」 それからマンションの一階を利用した足利市立美術館に入館。郷土作家紹介の特別展示室には、相田みつをの作品が数点展示されているだけであった。相田みつを美術館は東京駅前にもあるが、地元足利でこの程度の展示にしかお目にかかれないのは残念だ。向かいの本屋には相田みつをの作品と書籍の特設売場があったがそこは素通り。 さらに渡良瀬橋を渡って東武線足利市駅近くの浅間山上にある男浅間神社を参拝。わずか百メートルくらいの高さだが登るには骨が折れた。登って見ると絶景かな、絶景かな、渡良瀬川を前景に足利市街やそれを包む緑の山々が一望に見渡せる。頂上にまつられた男浅間神社では、毎年六月一日には「初山のペタンコまつり」と言うのが開かれていると言う。その一年に誕生の赤んぼうの健やかな成長を祈っておでこにはんこを押す行事だ。お土産に麦わら細工の竜が配られると言う。その情景を楽しく想像しながら、初孫誕生の感謝と、孫のためにも原発や戦争の無い世界をと、そこで丹念に祈って来た。 |
栃木保険医新聞2017年8月号 |