宇都宮・志賀医院跡には
気高く生きた明治の女医の面影


文ときり絵 天谷静雄(宇都宮市)



埼玉県出身の荻野吟子を振り出しに明治時代に医師登録された女医の総数は239名。 その中に明治42年に登録された岩手県初の女医の志賀ミエが居た。 何度も受験に失敗した上での合格であった。私塾には教育条件が整わないうらみがあり、 そのために貧乏学生同士、なけなしの金を出し合い「患者を買う」苦労もしたと言う。

東京の病院で3年間研修後、縁あって宇都宮市に内科医院を開業した。明治45年夏のことであったが、 これが宇都宮の女医第一号となった。戦後まもなくの昭和22年に閉院するまで彼女はそこで献身的な医療を展開する。 その医院の建物が戦災にも遭わずに現存していると言うのでわざわざ見に行った。 かつて士族屋敷が並んでいた四条町の一角にそれはあり、四条町教会の向かい側にあるのですぐにそれと分かった。 それは昔の医院とはこんなものかと思われるくらいに怪しくレトロな雰囲気に満ちていた。

建坪100坪くらいの瓦葺き平屋の和風住宅だが、西側道路に面した所だけ、 モルタルで洋風に作り上げている。四角い形のエントランスの中に観音開きの戸があり、 今は南京錠がかかっている。低い石造門柱のくぼみにはかつて「志賀醫院」との文字があったのだろう。 神妙な気分でここを出入りした患者たちやお抱え車夫による人力車で往診に出かけたミエの姿がほうふつとさせられた。 惜しくもそこは伸び放題の林に包まれて昼なお暗き幽霊屋敷となっている。 屋根の梁が折れ、瓦が落ちた部分もあり。しばしそこに佇み、何とかこの記念すべき建物を保存修理するすべは 無いものかと思い案じた。

ところで、彼女の孫に当たる志賀かう子は昭和10年(1935)、宇都宮市の生まれだが、1982年、 ベストセラーとなった『祖母、わたしの明治』と言うエッセイを書いて祖母の明治人としての気骨ある人生を写し出した。 さらに2002年には劇団文化座による『ほにほにおなご医者』と言う演劇にもなり、 佐々木愛が主演で全国で好評巡演した。そのあらすじをここで紹介しよう。

明治13年、岩手県南の金ヶ崎村の没落士族の志賀家の次女として生まれた。 兄が法律家、姉が産婆、妹が教師として自立して行く中で、自らは仙台の裁縫学校に通う。 そこでいったん裁縫教師の職を得たものの、兄からの勧めで医師になることを志し、上京して艱難辛苦の末、 医術開業試験にパスして、岩手県初の女医となった。その間、兄の友人で不実な夫との「結婚」で出産した一人娘を 実家に預けて勉学に励むのだが、その夫に逃げられて娘は私生児扱いになってしまう。

その娘の美子も立派に成長し、結婚して子持ちながら東京女子医専を出て女医となるのだが、 その数年後の昭和17年3月、脊椎カリエスに倒れて34歳で亡くなってしまう。その頃、母親のミエは60歳そこそこ、 仲の良い妹夫婦の任地がたまたま宇都宮であったと言う縁で宇都宮に内科医院を開業している。 そこで残された男女の孫2人を宇都宮にひきとって母親替りで育てることになる。 兄の方はやがて東京の小学校に通うために新聞記者をしている父親にひきとられて行くが、 妹のかう子だけは残されて祖母と二人だけの生活をすることになる。 ミエは「母親がいないということで孫を甘やかすことを断じてすまい」との決意で孫を厳しく躾ける。 遊びたい一心のかう子には酷であったが、そういう母親代わりの祖母から学び取った明治人気質、 人々がパイオニア精神に溢れていた明治時代というものについて思い出し、自らの人生にも生かすことになる。

たとえば、膝は崩さずお行儀よく座る、食事は感謝しつつ平らげる、ものはあくまで大切に使うなど。「 何々してはならぬ」の上に決まって冠せられる言葉は「侍の娘は」であった。 一方、高笑いや放屁は家族の前では自由勝手など、奔放、豪快な性格をも浮き彫りにしている。印象に残る話としては、 戦後まもなく向かいの四条町教会にトラックで乗り付けた米兵に、そのトラックが門を塞いで邪魔だと抗議に行く下りだ。 ついにはその若い米兵を謝らせるのだが、気骨ある明治人の面影を伝えていて面白いエピソードだ。

昭和20年7月12日深夜、宇都宮市は米軍による爆撃を受けて死者六百人余、市内3分の1を焼失する大惨事となるが、 奇しくもこの建物は被災を免れる。戦後は若い医者が自転車で往診する時代となり、 人力車で往診するような老女医の時代は終わったとして、30数年の医院生活に幕を引く。 その後は昔とった杵柄で針仕事に精出す毎日を送る。

かう子は大学進学のために昭和29年に上京して祖母と別れる。やがて持病のリウマチが悪化して不自由な体となった祖母の臨終までの6年間を宇都宮に来て共に過ごすことになる。やがてここに閣僚まで経験した政治家で脳血栓に倒れた父も合流し1971年からは三人暮らしとなる。その間、35歳になったかう子が祖母の勧めで医大進学に向けて猛勉強という一幕もあり。しかし、この父の看病のために断念する。その祖母は子宮癌に侵されて1973年5月31日、94歳で他界。かねて自分の死装束まで用意してのいさぎよい旅立ちであった。なお娘婿でありかう子の父親であった健次郎は1994年9月、90歳で他界している。

ちなみに、その父親は1990年、鈴木内閣誕生時、朝日新聞社からの質問で、 原敬を先頭に5人の宰相を岩手から排出した背景は一体何かと訊かれ、即座に「そりゃ、ハングリーですな」 と答えている。そして賊軍のみじめさを余儀なくされた貧乏士族の意地と誇りとそれゆえに貧窮の中で精進した教育の バネの力だ、と解説を加えている。それは明治新政府の中心となった薩長勢による奥州蔑視の中で「奥州白河以北、 一山百文」と嘲笑されたことへの見返しでもあったのだろう。東北出身初の平民宰相となった原敬がその代表だが、 原は当初「一山」と号していたのを後に「逸山」と言い換えている。スケールの違いはあるが、志賀家の兄妹たち の置かれた状況とその気概はこれに類するものではなかったか。

廃屋の東側、庭に面した部屋の南側にはミエが化粧水として愛用したヘチマの液を採ったヘチマ棚があったはずだ。その奥にあったジョイ(常居)での使用人も含めた一家団欒の様子も今や想像して見るしかない。もっとよく見ようと生垣の隙間から庭に忍び込もうとしたら、たちまちバリヤーのような蜘蛛の巣にさえぎられてしまった。

栃木保険医新聞2019年新年号・投稿