南荻久保文学散歩
妻をめとらば才たけての巻


文ときり絵 天谷静雄(宇都宮市)



学寮時代のコンパでは「妻をめとらば才たけて/みめうるわしく情ある」の出だしで始まる歌を大声で歌った。それは「人を恋うる歌」と言い、与謝野鉄幹作と聞いていた。 はたして鉄幹の最愛の妻となった晶子はどうであったか。そんな興味もあって今回、鉄幹・晶子の文学散歩を試みた。

中央線の荻窪駅から歩き、環八通りを渡ると、南荻窪の地に通称「与謝野公園」がある。案内板の説明には、関東大震災後、昭和2年からこの地に転居とあり。そこは五百坪位の 広い敷地に立木とベンチと藤棚がある公園になっており、逍遥しながら鉄幹・晶子の歌碑12基を見て回る格好になっている。

最初にかの有名な「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」との晶子の歌。四つ目に「あめつちに一人の才をおもひしは/浅かりけるよ/君に逢はぬ時」との 鉄幹の歌あり。妻の才能に圧倒されている様子がうかがえる。自ら「明星」誌を創刊して歌壇に浪漫主義を流行らせた彼ではあったが、壮士気取りの「ますらおぶり」の歌風も次第に 色あせて繊細な「たおやめぶり」の歌風へと変じて行く。鉄幹の号も廃して本名の寛を名乗ることにした。

それに対して男まさりの晶子は「男をば罵る/彼等子を生まず命を賭けず/暇あるかな」と歌っている。晶子は実際、12人もの子を産んだ。常におなかを大きくしながら文学的にも 多産だった生涯は天晴れと言うしかない。明治41年の「明星」廃刊で失意に陥っている鉄幹を励まし経済的にも支えたのは晶子の方であった。

そもそも晶子は明治11年、大阪府堺市の和菓子屋の三女として生まれた。親に隠れて文学を読み耽り、歌会で知り合った師匠の鉄幹に魅かれ、山川登美子との三角関係、いや当時妻 滝野もいたので四角関係の中で悩みつつも、思い切って家を飛び出し東京の鉄幹のもとへと走る。それは明治34年、晶子23歳の時であり、ついに妻の座を射止めてしまう。

その直後には官能的な情熱を歌った『みだれ髪』を発表し、世に一大センセーションをまき起こした。いや、それだけではない。日露戦争に従軍中の弟を思って「君死にたまうこと勿れ」を 「明星」に発表した。それは今では代表的な反戦詩として人々に愛されつづけている。

晶子は平塚らいてうらが発刊した雑誌「青鞜」にも「山の動く日きたる」を寄稿して励ましている。らいてうとの母性保護論争は有名だが、国家的保護を主張するらいてうに対して、 晶子の方はあくまで女性の経済的自立が優先と主張している。母性と仕事とを両立させた女丈夫としての晶子ならではの見解ではある。

ちなみに晶子は明治44年、「産屋なるわが枕辺に白く立つ大逆囚の十二の柩」という歌を発表している。大逆事件で死刑になった12人の柩が夢枕に立つほど晶子のこの事件に対する思い入れは深かった。

と言うのは、和歌山県新宮市で開業の赤ひげ医師大石誠之助が「明星」同人であり、この事件に連座して死刑となったからだ。鉄幹も当時、「誠之助と誠之助の一味が死んだので/忠良なる日本人は之からは気楽に寝られます」 とのアイロニカルな詩を詠んでいる。

明治45年、失意に陥っていた鉄幹をフランスに送り出し、後で自らもフランスへ旅立って西洋で女性の自立した姿に触れている。大震災後、荻窪に転居するが、今と違ってここは相当の田舎だったらしい。

案内板によるとここに3つの建物あり、2階建ての母屋の方は女中部屋を含めると12部屋もあり、子沢山とは言えすごい家に住んでいたのだなと思う。弟子たちが寄贈した書斎の冬柏亭と言うのもあった。 ちなみに冬柏とは椿の異名で与謝野夫妻が最も愛した花らしい。

最後の三首のうち「わが子らが/白き二階の窓ごと/出だせる顔も月の色する 寛」「ほがらかに家の内そと物なくて/ガラスを透す/青芝の色 寛」にはこの地での家族水いらずの生活の様子がにじみ出ていてほほえましい。 さらに「木の間なる/染井吉野の白ほどの/はかなき命抱く春かな 晶子」は昭和15年5月、晶子が脳出血で半身不随になってからの作のもののようだ。

最後に晶子の「歌の作りやう」の詩碑が置かれてあった。「歌はどうして作る。じっと観、じっと愛し、じっと抱きしめて作る。何を。「真実」を。/「真実」は何処に在る。最も近くに在る。いつも自分と一所に、この目の観る 下、この心の愛する前、わが両手の中に。」これを見て、まるで眼前に晶子が現れて、身ぶり手ぶりよろしく教えさとされているような錯覚を覚えた。

鉄幹は、昭和10年3月26日、62歳で死去。晶子は、昭和17年5月29日、64歳で死去。鉄幹は自らを「星の子」と称し、うぬぼれていた。晶子の方はそれにもまさる輝きで、名前の中に「日=太陽」を三つも抱えていると称していた。 まさに、太陽の前に星影なし、との感服の思いでそこを出てきた。

栃木保険医新聞2020年新年号・投稿