田端文士村を歩いて、芥川の死に至る病の謎に迫る

文と切り絵 天谷静雄(宇都宮市)



 谷底のようになった田端駅はいつも通過駅だったが、今回は特別な思いでこの駅に下り立った。以前、染井霊園近くの慈眼寺で芥川の風変わりな墓(座布団の形)を見て、 いつかその終焉の地を訪ねてみたいと思っていたのだ。北口を出ればそこにはのっぽビルが立っており、その一階が入館無料の田端文士村記念館になっている。

 ここ田端は初めは陶芸家、彫刻家の住む芸術家村だったが、大正時代に芥川龍之介の居住開始によって文士の交遊と文学サロンの地となった。 そのことを記念して平成五年にこの記念館がオープンしたとのことだ。地図パネルの左右には代表的人物として、芥川以外に室生犀星、小杉放庵、板谷波山の名前と顔があった。

 小さな展示コーナーには芥川の初版本やハガキ、色紙の展示あり。ほかに放庵の絵や香取秀真の鋳金作品の展示などもある。もともとは陶芸家の板谷波山がここに窯を築き、 そのもとに彫刻、彫金グループがまとまった。それから芥川・室生犀星・堀辰雄・萩原朔太郎などの文士グループがともに交流して、文士村の独特の空気が生まれた。 それも昭和二年の芥川の死をきっかけに衰退し、全体が馬込に移ってしまったとのことだ。

 駅から南方へ真っ直ぐに伸びる通りは切り通しになっている。これは昭和八年に完成とのことで、もちろん芥川の在世中には無かったものだ。そこにはカッパの絵のぼりが立っていて、 「りゅうのすけ商店街」と書かれてある。近くの階段を上がってすぐの所に芥川の終焉の地あり。三百坪の三角地を仕切って今は三軒の家が建っている。 戦災で元の家屋は焼失したが、万年塀だけは昔のままだ。その塀の前に立って芥川の晩年の心境小説とも言うべき『歯車』と言う作品を思い出し、芥川を自死に追いやった本当の理由は何だったのかと深く思いをめぐらす。

 そもそも芥川は生後九ヶ月時に実母のふくが発狂し、ふくの兄で子どものいない芥川道章に引き取られた。そして一生独身を通したふくの姉のふきによって可愛がり育てられた。 このような養子としての家の重圧と実母が狂人であったという経緯が彼を鋭敏繊細な性格に育て上げた。さらに吉田弥生女史との結婚を願望して養家に反対されたことがそもそもの失意の始まりであった。

 しかし漱石に見出され『羅生門』を発表して一躍、文学界の寵児となる。横須賀にある海軍機関学校の英語教師の職を持ちながら、さかんに読み、書きまくった。 時空を超えてさまざまな小説のジャンルに挑戦し、しかし自己暴露的な作品を書くことだけは潔しとしなかった。志賀直哉の『暗夜行路』を読んで感心し「ぼくにはとても書けない」と嘆息していた。 いざ長編の心境小説を書き出そうとして力尽き燃え尽きた。

 家庭的には義兄に不幸が起きて奔走しなければならず、それに女性問題が加わった。永年の不眠症で心身の衰弱が進行していた。こう言う人にとって自殺の本当の理由を問うのは至難の技だろう。 遺書によれば「漠然とした不安」があったと言う。当時の時代背景を考えれば、ミリタリズムが大嫌いだった芥川が、リベラルな大正時代の終焉を敏感に感じ取ってのことだったか。 さらに宮本顕治の評論『敗北の文学』が指摘のように、プロレタリア文学の勃興に共感を覚えつつもその同伴者たり得なかった限界もあるのではないか。

 芥川が田端に移ったのは大正三年のこと。九歳年下の文子との結婚式は近くの天然自笑軒という高級料亭で行なわれた。今そこは個人の邸宅となっているが、長塀の上に樹木が生い茂って昔の面影をよく伝えている。 その向いに芥川のかかりつけ医となった下島医院があったと言うがその面影は皆無だ。

 それから切り通し道を横切り、西側の台地上にある室生犀星の旧居跡、堀辰雄の下宿跡も訪ねて回った。 堀辰雄は犀星の紹介で芥川に師事した関係でその文学的影響も受けていると言う。私生児として生まれ、下町育ちで、震災で母親喪失という境遇も芥川に似ているなあと思う。 大龍寺では正岡子規の墓も見た。「竹の里人」と号したらしく小さな竹藪を背負っていた。

 かくてまた元の田端駅に戻ってきて、駅ビル内にある本屋で『田端文士村』という本を買い求めた。著者の近藤富枝氏はかつてこの辺りに住んで昔の面影を熟知しているというが、さすがにうまく描かれているなあと思う。 そしてわずか一キロ四方くらいの起伏の多いこの土地が、かつて芥川を中心に大正文壇の聖地として輝き沸騰しやがて燃え尽きた時代を、はるかな昔として懐かしく思いやった。

栃木保険医新聞2021年新年号・投稿