被爆画家の思いは熱きシンフォニーの如く

文と切り絵 天谷静雄(宇都宮市)



ゆく秋の 大和の国の 薬師寺の
       塔の上なる 一ひらの雲
                佐々木 信綱

 私が古都奈良を最初に訪れたのは中学の修学旅行の時だった。 当時、十四歳の私が楽しい旅行気分になれなかったのは、癌末期の母親を抱えて、遠くはるかにその安否を思い続けていたからであった。 あれから数十年、久々に訪れた薬師寺境内は金堂と西塔も立派に再建され、創建当時のきらびやかな姿に生まれ変わっていた。

 白鳳の美を伝える東塔は修復工事のテントに覆われて見えず。 かつて粗末な金堂の奥に生命の光の満ち溢れた薬師三尊を拝み、フェノロサにより「凍れる音楽」と讃えられた古塔を仰いで感激、感動した昔の記憶をよみがえらせるすべはもう無い。 これも故高田好胤管長の発願により七〇年代以降、着々と「白鳳伽藍」復興に尽力し、写経勧進をもってその費用に当てた結果だと言う。

 私にとっては古寺の雰囲気が失われて残念な思いととまどいはあり。 日本人の美意識はよく「滅びの美学」にあると言われる。 しかし観光寺院に止まるのではなく、仏教者の立場から信仰を形にしようとする真剣な努力はそれはそれとして是認されることではあろう。

 ところで寺域の北隣りには団体客も受け入れられる大きな写経場ができており、その奥には平成の新たな伽藍として玄奘三蔵院と言うのが作られていた。 ここには平山郁夫画伯がシルクロードを旅して描いた日本画の大作が飾られていると言うので、ついでに拝観して来た。

 そこには「西方浄土須弥山」と「明けゆく長安大雁塔」を中心に横幅49mにも及ぶ長大な壁画が展示されている。 ここでなぜ玄奘三蔵かと言えば、玄奘三蔵が国禁を破って唐から西域を経て遠くインドにまで旅し、膨大な経典を持ち帰ることに成功し、その翻訳を実現したことが、日本への仏教伝来へつながっている。 そう言う歴史認識からだと言う。

 平山郁夫と言えば東京芸大の学長もつとめたことがある日本画界の第一人者だ。 1930年(昭和5年)瀬戸内海の小島に生まれた平山画伯は旧制中学時代、勤労動員で訪れた広島への原爆投下により被爆し、後に被爆後遺症(白血球減少)で苦しむことになる。 とくに大学の助手時代に学生とともに訪れた青森・八甲田のスケッチ旅行の頃が最悪だったが、不思議にもこの時期から体調が回復してきた。

 一時は死も覚悟した彼だったが、院展に出品し入選したのが玄奘三蔵をテーマとする「仏教伝来」と言う作品だった。 そのことが縁で、平山の作品テーマは仏教とそれを伝えたシルクロードへとつながって行く。

 シルクロードへの取材旅行は文字通り命がけであり、それを支えた妻美知子さんの内助の功もあった。 経済的にも困窮し、生まれたばかりの長男を島の実家の両親に預けると言うことまでした。 構想から三十年余を経て、薬師寺に大壁画「大唐西域記」が完成、公開されたのは2001年1月1日だった。 二十一世紀の幕開けにふさわしい快挙であったが、惜しくもその8年後には79歳で永眠されている。

 年譜をたどればその一生は玄奘三蔵の道とも重なり、平和への祈りに明け暮れた毎日であった。 平山のシルクロードの旅は、わが国の画壇史に偉大な足跡をもたらしただけでなく、遺跡の保存修理活動などを通じて、世界を舞台にした文化大使としての役目も果たされた。 目の前の大壁画を通して、平山の執念と熱き思いはシンフォニーの如く私の心にも伝わってきた。 そして奇しくもこの壁画と出会うことにより、人類生存の緊急課題としての核廃絶の必要を痛感した今回の古都奈良訪問とはなった。

栃木保険医新聞2021年8月号・投稿