「いしゃ先生」とは山形県出身の作家あべ美佳氏が豪雪地域の西川町大井沢で活躍された女医の志田周子(しだ・ちかこ)の生涯を描いた小説である。 当初は「全国保険医新聞」に連載され、後に映画化もされ2016年、保険医協会、保団連が後押しして全国で上映運動がされた。 それは若くて美しい女医の奮闘記であり、山間僻地の人々にとって医療が高嶺の花であった時代を想起し、国民健康保険実施の意義とそれを守ることの大切さについてアピールしている。 実はこの西川町は妻の生まれ故郷でもあり、妻の帰省に同行の際、思い立って当の大井沢地域まで車を走らせて見た。 新緑の山に消え残った斑ら雪、こぶしの白い花、清冽な川の流れには山国の春の息吹が感じられる。 車を走らせながら、同じ季節にはるかな山道をたどり歩いてきた若い女医の姿を想像して見る。 周子は父からの「ハナシタイコトアリ イソギカエレ」との電報を受け取って、とるものもとりあえずここに来たのであった。村長である父は村にできる診療所に娘の赴任を迫る。 もともと無医村の苦しみを救うために東京女子医専に進み医者となった周子だが、まだ修行も十分ではない。 東京には将来結婚したいと思っている交際相手もいる。 「診療所ができつつありもう後戻りができない」とくどかれ、迷ったあげく「3年間だけ」との約束でこれを引き受ける。 臨時の診療所は土蔵を改造して始められるが患者はさっぱり現れず。 かかれば高い金がふんだくられるだろうと言うことと、若いおなご医者に何ができるのか、信用ならないと言う村人の警戒心からであった。 そこで往診と称して村の中を歩き回り、挨拶と御用聞きを始めたが冷たい反応に会うばかり。 ある日、弟の友達の母親が病で臥せっていると聞いて往診に出向くが、そこでも拒否に会う。 かわりに祈祷師がやって来てするりと奥の間に入る。死んだ後にやっと引き会わせてもらったが、それは死亡診断書を書くためにだけであった。 半年後には診療所が完成するが、開店休業状態が続く。 ある日、子どもたちが運んできた死にかけた猫をみごと生き返らせたことで患者が次々と来院するようになる。 エピソードとして腹痛で苦しんでいる三十代男を往診した時、盲腸で手術が必要な状態と分かったが、隣町の病院まで運んでと訴えても周囲は納得せず。 眠らずに待っているとまた呼ばれ、吹雪の中、箱ゾリに乗せて運ぶ途中、峠の手前で遂に病人は息絶えた。 このように厳しい冬を三つやり過ごし、幾人もの死者を見送り、日増しに患者が増えていく中でいよいよ運命の日を迎える。 それは愛する母親の難産の上の無念の死であった。 周子は母親を助けられなかった自分自身を呪い、怒りの涙を流す。 周子は母無し子になった弟妹たちのために自ら母親代わりになることを決意する。 やがて戦争たけなわの時代となり、健兵健民政策の一環としての国民健康保険法が制定される。しかし貧困層には全くと言っていいほど機能しておらず。 患者が負担できなかった医療費は診療所の持ち出しとなり、経営は火の車であった。 隣町から来てくれるはずだった後任医師の話は激しさを増す戦火とともにいつの間にか立ち消えに。 やがて終戦を迎え、自ら志願して兵隊に行った長男の戦死公報におののく父。 小さくなった父を見ているとやり場の無い悲しみがこみ上げ、表へ出て一人泣いた。 さてここに来て11年目、かつての交際相手から東京行きの切符二枚が入った封書が届く。胸をときめかし、この村を出て行こうと決意する周子。 しかし急患の知らせに山形駅行きを取りやめる。それは一生独身で僻地医療に献身しようと決意した決定的瞬間であった。 さて大井沢には診療所が元のままに残っており、公共の温泉施設の前に小さな白ペンキ塗りの建物としてあった。 今は個人に譲渡され倉庫代わりに使われているとのことで不愛想にシャッターが下ろされていた。 さらに旧大井沢小学校に行けば、校庭の片隅に周子の歌碑があり、そこには 映画ではこの受賞を再現するシーンが山形県の旧県庁舎「文翔館」で撮影された。 ヒロインの周子役は美人女優の平山あやだが、授与する側は全国保険医団体連合会(保団連)の住江憲勇会長が自らエキストラで演じたと言うのも語り草だ。 その時の周子の謝辞ははたしてこんなものであったか、映画では「命の平等」について雄弁に語っている。 そこに国民医療を守って日夜奮闘の保団連の誇るべきイデオロギーを見た思いがした。 その後、周子は食道癌を患い、51年の人生に幕を閉じる。僻地医療に献身して「日本のナイチンゲール」とも呼ばれ短くも美しく燃えた女医の生涯であった。 私は春浅き大井沢の地に立って、このひたむきな地域医療の精神にこそ我々町医者は学ばなければならないと思った。 |
栃木保険医新聞2022年新年号・投稿 |