100年前の関東大震災の混乱の中で朝鮮人などに対する多数の虐殺事件が発生したことを知る人は多いと思う。 虐殺の対象は、朝鮮人にとどまらず、中国人、社会主義者らにも及び、日本人が虐殺された例もあった。 軍や警察が行った虐殺もあるが、多くは、自警団などの民間人によるものであった。 中でも、朝鮮人に対する虐殺は、内閣府中央防災会議報告書(2008年3月)では、 東京を中心に神奈川県、埼玉県、千葉県などで震災全体の犠牲者の1〜数%、 すなわち、1千人〜数千人に及ぶ大規模なものであった。これらは主として自警団によるものであった。 このようなことが発生した直接的要因の一つが、9月3日に内務省警保局長名で出された地方長官宛ての 「朝鮮人ハ各地ニ放火シ、不逞ノ目的ヲ遂行セントシ、現ニ東京市内ニ於テ爆弾ヲ所持シ、石油ヲ注ギテ放火ヲスルモノアリ… 各地ニ於テ充分周密ナル視察ヲ加エ、鮮人ノ行動ニ対シテハ厳密ナル取締ヲ加エラレタシ」との通知であった。 警保局長は、今の警察庁長官のような役職であり、地方長官は、今の都道府県知事である。 これが、それまでのわが国による朝鮮の植民地支配などで形成されて、潜在化していた朝鮮人に対する蔑視と偏見の気持ち、 民族運動・独立運動に対する恐怖心などの否定的感情と結びついて、大震災の混乱の中で一気に爆発し、各所での虐殺事件につながったのである。 ことはそれだけにとどまらなかった。この狂気の中で、朝鮮人と誤認されて殺害された日本人がたくさん出たのである。 当時の新聞によると、栃木県でもそのような事例が4件あったとされているが、今、最も関心を集めているのは、 千葉県東葛飾郡福田村(現在の野田市)で発生し、このたび森達也監督により映画化された「福田村事件」である。 この事件は、震災後の9月6日、香川県から来た売薬の行商人の一行15名が、 利根川の対岸に渡ろうとして福田村の香取神社で休憩していたところ、同村と隣の田中村(現在の柏市)の自警団200名位が彼らを取り囲み、 言葉がおかしい、朝鮮人ではないかなどと問い詰め、地元の住民には馴れない讃岐弁であったことから、必死に日本人であると弁明したにもかかわらず、 「こいつら朝鮮人だ」「殺ってしまえ、殺ってしまえ」と荒縄や針金で縛り上げたり、鳶口、こん棒をもって殴打したり、ついには、利根川に投げ込むなどの暴挙を行った。 その結果、9人(6歳と2歳の男児を含む男6名、妊婦と4歳の女児を含む女3名)が殺害されたのである。 震災後の混乱の中とはいえ、およそ信じ難いことが起ったのである。 生き残った人の証言では、君が代を歌わされたり、イロハ四十七文字を言わされたりしたが、いったん朝鮮人と決めつけた群衆は、 それでも納得せずに蛮行に及んだということである。 15名は香川県三豊郡から来た人達であった。 香川県は農地面積が少なく、小作人の割合が全国有数の高さで零細農家が多く、小作争議が頻発していた。 そのため、農業では生活が成り立たないことから、売薬行商をする者が多かったのである。 1923年当時、売薬行商人の数は、大阪についで全国2位であった。そのような人々の前に、狂気が及んだのである。 ことの発端は大地震であるが、それにともなって発生した混乱に対する、当局の事実に基づかない誤った対応が、 流言飛語のため判断力を失っていた民衆の朝鮮人に対する感情を刺激し、その結果多くの朝鮮人虐殺事件を発生させ、 ひいては、朝鮮人と誤認された日本人への虐殺をもたらすことになったのである。 その意味で、福田村事件など朝鮮人と誤認されて殺害された日本人の殺害事件は、朝鮮人虐殺事件と同一事件であるといってよいであろう。 このとき、殺害に加わった福田村や田中村の自警団の人々は、場所柄からすると、普段、農業を営む、どこにでもいる日本人であったはずである。 特別に善良であったり、特別に残虐性を持つ人々ではなかったはずである。 他の朝鮮人虐殺にかかわった人達も同様であったろうと思う。 しかし、そういった人々も、一定の条件下では、残虐な行為を行い得るということである。 究極的には、一般国民が徴兵で戦争にかり出されて戦地で戦う兵士の行為もそうであろう。 ただ、いえることは、大震災下での朝鮮人などの虐殺や戦争での殺害行為は国家とのかかわりのもとで発生しているのであり、 その意味で、場合によっては、個人の責任が問われることがあり得るとしても、個人にだけ責任を押しつけることは誤りである。 最終的な責任の所在は、自警団をしてそのような行為に走らせたり、戦争で他国の兵士や民衆を殺害したりすること命じた国家にあると言わなければならない。 戦争行為を含め、国家が誤ったことをしないように監視することの重要さは、このようなところにも表われている。 |
栃木保険医新聞2023年10月号・投稿 |