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Helen
Keller(ヘレン・ケラー)女史とライオンズクラブ
ライオンズクラブは何故、視力障害者の福祉対策に力を入れるのか?
それは、1925年、ライオンズクラブ・セダーポイント国際大会に端を発します。
第9回ライオンズクラブ国際大会はオハイオ州セダーポイントにヘレン・ケラー女史を招いて開かれました。
女史は、世界各地から集まったライオンズに向かって、
「ライオンズは、暗闇をひきさく十字軍の騎士たれ」と訴えました。
「あなたのランプの灯をもう少し高く掲げてください。
目の見えぬ人々の行くてを照らすために」
この演説を聞いて感動したライオンズクラブのメンバーは、以来70年以上にわたって、盲人福祉活動を続けているのです。
このようなわけで、1968年87歳でヘレン・ケラー女史は亡くなりましたが、
その命日である6月1日は、ライオンズクラブ国際協会ではヘレン・ケラー・デーとしているのです。
(The Lion '99.6
ヘレンケラーとライオンズクラブの視力障害者福祉・L佐藤隆久[熊本第一 LC]抄録 )
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視力障害者の白い杖
1930年当時、L.ジョージ A ボナムという、米国 イリノイ州 ピオリア ライオンズクラブの会長がおりました。
ある日繁華街を歩いているとき、一人の盲人が交通ラッシュの道路を横断できず、立往生しているのを目撃しました。
ボナムは、運転者には、彼の目が見えないことがわからないので、誰も止まろうとしないのだと考え、
「目の見えない人が歩いているのを気付かないドライバーに、自分は目が見えないのだと、知らせる方法があればいいのに」と、「白い杖」を思いつきました。
クラブはこれを承認して、白い杖を無料で、町の盲人にプレゼントしました。
白い杖は目立つので、遠くからでも判り、大変役に立ちました。
そして市議会では、白い杖の持ち主に交差点での優先権を認める条例を可決しました。
つまり、白い杖を持った人をみたら、安全に横断できるように止まったり、 徐行したりしなさいという条例です。
それから、白い杖は、全世界に広がりました。
万国共通のあの白い杖はライオンズクラブの奉仕活動の産物です。
ライオンズの一人の人の考えが、市を動かし、ライオンズの組織を通じて全世界に広まったエピソードです。
ライオンズマンは、この白い杖と同じように、いろいろなアイデアを出しあって、福祉の向上に役立とうではありま
せんか。
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アフリカへ米を贈った話 故佐藤貞夫元ガバナー(地区年次大会委員長・名誉顧問)宇都宮西LC
のお話
ひとりのカメラマンがアフリカの飢餓の惨状をカメラに収めてきた。
土門拳賞を受けた三留理男である。
彼の写真には、草木は枯れ、家畜は死に絶え、腹だけが異常に膨れた骨と皮ばかりの子供が写っていた。
その彼は言う。「これは人災です。ぼくらの手で助けられる」
この写真を見た足利ライオンズクラブの一会員は大きな衝撃を受けた。
何とかできないかと、クラブ理事会、例会にはかったところ
「米の余っている日本人は、この子らを救う人道的義務がある」と衆議一決した。
早速ケニア大使館や当時の農林水産、通産、大蔵各省との交渉が始まったのだが様々な壁が立ちはだかった。
食管法上政府米の払下、輸出はできるのか、輸送の費用は、陸揚げした後の保管やその後の輸送はどうするのか、精米機はあるのか。確実に現地人に渡るのか。
疑問と難関は次から次へと現れ、そのたびに会員の粘り強い努力と善意の人々の協力によって一つ一つ解決されていった。
食糧庁は10トン単位での放出を認めてくれた。
輸送は総合商社トーネンがトン当り1万円という犠牲的奉仕で強力してくれることになった。
現地の手配は北ナイロビライオンズクラブが引き受けてくれた。
遂に壁は破れたのである。
このことを伝え聞いた全国各地の人達から続々と共鳴の基金が寄せられ始めた。
昭和56年11月10日、足利市民プラザで足利ライオンズクラブ20周年記念式典が行われ、記念事業として、ケニアに救援金1万ドルと米100トンを贈ることが発表された。
式典にはオニヨン駐日ケニア大使が出席され、基金で井戸が掘れたという感謝の報告が寄せられた。
そして、昭和57年5月、厚さ10センチにもなる膨大な書類審査が終了して、横浜港から10トンの米がケニアに向けて出港した。
不可能と思われた「我々の手でアフリカに米を」との悲願は遂に実現をみたのである。
足利クラブの、飢えた子らの命を救いたいという人類愛と奉仕への情熱が、遂に道を拓いたのである。
ケニア共和国モイ大統領が国賓として日本を訪れた際、赤坂迎賓館で大統領主催の晩餐会が開かれた。
天皇、皇族方をはじめ鈴木総理、各国大使らへの招待状の中に、足利クラブへの招待状が含まれていた。
足利クラブの壮挙に対し、モイ大統領から直々に感謝を表したいので出席されたいというのである。
クラブを代理して当時ガバナーであった私が出席することになった。
天皇(昭和)と並んでお立ちになる大統領に謁見したとき、大統領は
「おお、ライオンズクラブ」
と、その真黒な大きい手で私の黄色い手を固く握られた。
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アフガン難民への支援 (333B地区キャビネット)
2001年9月11日、ニューヨークの世界貿易センタービルはハイジャックされた旅客機の激突により破壊され、多くの人命が失われ、我々333-B地区キャビネットも、アメリカへ支援金を送りました。
アメリカは早速アフガニスタン(アルカイーダ政権)へ空爆を行ない、大量のアフガン難民が発生しました。
多くの難民が寒い冬を越せるのかが心配されるとき、ライオンズ国際本部からは何の要請もありません。
333-B地区では、ライオンズのメンバーから、アフガン難民へも支援しないのでは片手落ちではないかと、意見が出され、第2回キャビネット会議でアフガン難民支援を行おうという動議があり、全員の賛成により、以下のような支援を行いました。(動議は10Rの阿部喜好RCより提出されました)
収集期限は
2001年12月20日(木)を期限として、各クラブ毎に集めたものを、キャビネットで収集して、神戸からNGOを通して、パキスタンのカラチへ贈りました。送料は、キャビネットの緊急援助資金で負担いたしました。
毛布・セーター・ジャケット・ジャージー・スニーカー等、89,489立方メートル 1,000箱以上集まりました。
90クラブがご協力していただきました。なかには、矢板及び宇都宮マロニエクラブのように100箱以上ご協力頂いたところもありました。
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2002年2月4日アジア アフリカ環境協力センターから礼状
ASIA AFRICA COOPERATION ENVIRONMENT
CENTER (A.C.E.C)
アフガン難民支援、ご協力本当にありがとうございました。
みなさまのご協力のおかげで去る1月16日に駐日パキスタン大使一等書記官の立会いのもと、救援物資150トン(40FTコンテナ2本分)の積み込みを無事終えることができました。
船名 MOL TYNE
につまれたこの救援物資は、1月22日に神戸港からおよそ30日間をかけパキスタン・カラチ港に向かい、そこから7日間をかけて目的地イスラマバードへと陸送されます。
またアセックでは3月初めに、メンバー5名を現地に向かわせ、アフガン難民支援を行う予定をしています。
神戸は7年前に震災に見舞われ、多くの人が犠牲となり、心に傷を負いました。そんな我々を支えてくれたのが、日本全国、また世界中からの暖かい援助でした。
今度は我々がそのとき受けた恩をお返しする番です。
現地で厳しい寒さに震える人々に、毛布の配布や炊き出しのような活動を行っていきたいと考えています。
今後とも我々アセックにご支援を宜しくお願い致します。
本当にありがとうございました。
アジアアフリカ環境支援センター 代表 爪谷幸孝 |